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see you again!!

【ニュー男子】see you again!!

 

こんにちは。またまたお久しぶりです。お元気にしていますか?

突然なのですが、今回にてこの連載、ニュー男子は終了になります。

ぼくも6月のある夜に、突然にそれを伝えられ、それなりに驚きました。

が、始まりがあれば終わりはありますものね、なにごとにも。

終わることはさびしいけれど、どこかしらに清々しさのようなものも感じています。

ほんとうは7月に最後の投稿をして、と言われていたのだけど、できませんでした。

なんだかね、とてもハードで。

いや、本当に今年はいろんな出来事がどんどん起こっていて、

それらと向かい合っていると平気で10日間とか経っていたりする。

だって8月がもう半分も過ぎているんですってよ? 驚く。

さて、最後の投稿を書けなかったのは何を書いたらいいのか浮かばなかったのもある。

そうして、今も浮かんでいないまま書いている。

最後なのに、いや、最後だからフリーハンドというのか即興でやることにした。

最近のぼくは、

5、6年前に撮っていたままになっていたフィルム4本を現像&プリントに出したことが、けっこう面白いことでした。

近いようで遠い2013年頃の自分とかカレとか友人とかが写っている写真は、

もうふれることのできない過去という時空間を思わせ、なんだか切なかった。

けれど、それはこの世界の法則なのだろうから、いたしかたない。

(ひょっとしたら過去に戻ることは不可能ではないのかもしれないけれど)

そして、今日という日、今という瞬間も、即座に過去になっていき、

実は二度とふれることのできないものなのだと知るとき「一度だけの今を大切にしよう」と、

前向きな気持ちにもさせてくれるのでした。

それから、手前味噌というかたんなる自画自賛なのだけど、

その写真というのがなかなかにすばらしくってね、すぐに自分のブログにアップしてしまった。

なにがすばらしいかというと、当時の自分は写真を撮ることをすごくたのしんでいる。

いま写真を撮りたい! とシャッターを押している。

そんなピュアなエネルギーを写真は放っているとぼくは感じ、そこをすばらしいと思った。

初心忘るべからずとは、よく聞くけれど、

初めてカメラを持って写真を撮ったときの感動は忘れてしまったし、

初めて作文したとき、初めて自分の書いたものが雑誌に載ったとき、初めてのニュー男子の投稿のドキドキ、

そういう大切なものを、残念ながらぼくはほとんどおぼえていない。

でも、おぼえていることもある。

この連載に取り組むことは、ぼくにとっていろんな意味でありがたかったのだけど、

たのしいとか、うれしいとか、そういうことの一方に、

正解がまるでわからないことの悶々や、不特定多数に向けて自分の考えなどを表現することを怖いと感じることもよくあった。

だから、自分には挑戦だった。

今も、名前入りで何かを書くことに常に怖さを感じている。

これを書いていいのだろうか? 大丈夫か? など心配がよぎる。

けれど、文しかり絵しかり、発表をすることに、少しずつ覚悟のようなものも育まれてきた気はしている。

その育まれているものは「自信」と呼ばれるものかもしれない。

ただ、自分から生まれるものを良いものだと信じる”自信”とはぼくのそれは違う。

良くないとは思わないけれど「すばらしいでしょ、どうぞ手にして!」という感じにはまだなれない。

ただ、感じていること、表現したい衝動めいたものに対して、それを否定する必要も、

誰かや何かを傷つける可能性をそのときの自分が感じないのであれば、それを抑圧する必要もないのだろうと思っている。

だって、そう感じているのだもの、外に表したいのだもの、

その損得ではないエネルギーは、しかと外に放ち流すことで循環されるのではないか、と思う。

ちなみに、ここまで書いてきたこうした些細なことでさえ、

果たしてこれをアップしていいのかな? などと今日も思っているけれど、でもアップする。

あ! なにを書きたいのか、ようやく見えてきた。

ニュー男子の最終回にぼくは、「自分を愛するって、そういうことなんじゃないかな」ってなことを言いたい。

ぼくは30代の後半で仕事をやめて絵を描くことを主体にした生活に、生き方に進路変更をしました。

絵を描くことがものすごく好きとか、得意とか、そういう理由でそうしたのではない。

自分の中にあるさまざまなもの、好きでも嫌いでもないとか、悲しくなるくらいに青い空とか、

言葉にしてみることはできるけれど、とらえどころのないぼんやりした”感じ”、

はたまた、曖昧に曖昧を重ねても言語にはならない何か……。

そのようなあれこれを、体を動かすことで出したい人もいるでしょう。

そのエネルギーを瞑想で昇華、浄化する人もいるのでしょう。

体を動かしたり歌を歌ったり鼻くそをほじったり悪口を言ったり料理をつくったり、

生活の中でこだしにいろいろと放出していく人もいるのでしょう。

それが、ぼくは、絵だった。目下のいちばんは絵だ、という話なのです。

ぼくは、創作をしたいという気持ちが常にあって、だから言葉にならないエネルギーを、

なにかで発散するのであるならば、創造的、創作的なことに使いたいタイプの人間のようです。

そして、その創造的発散が、もっともしやすいのが今は絵のようです。

絵を描くことで、真っ白なものを塗りつぶすことでぼくは自分を解き放つことができます。

なんか嫌だ。なんか涙が出そう。年齢不相応な子どもみたいなわがまま放題の自分。

うーむ、うまく例えが浮かばないけど、たとえばそのような自分は、絵以外の場所ではなかなか、

遠慮したり恥じたり人に迷惑をかけるかもと恐れたりして、出すことがむつかしい。

「この感情は、ダメ」「こんな自分は間違っている」と大人の自分が即座に判断をくだし、外にだすことを許可しない。

でも、スマートで素敵でカッコイイ自分が理想だとするならば、理想はあくまでも理想で、

理想におさまらない現実の自分というのは誰しも存在するのではないかと思う。

アイドルだってトイレに行く。マザーテレサだってダライ・ラマだってイライラすることはきっとあるだろう。

どこまでもすてきな人になりたいし、誰の目にもイケている人でいたい。

でも、二極性ベースのこの地球の住人、人間には、

母なる地球に陰陽の二極があるように、二極を備えているのだろうと思う。

迷うことなくお年寄りに席をゆずる人の中にも「席をゆずるの面倒。ていうか眠い」って声はわずかでもあるように思う。

どこまでいってもそうした声は0にはならないんじゃないかなって思う。

たとえば「やさしさが51%、残酷さ49%。で、結果やさしくふるまう」。それでいいのではないかな。

100%でなくてもいい。

というか、見たくないし、見過ごせるほんの数%の自分こそ、

しっかりと見てあげて、それが存在していることを認めてあげる。

小数点以下的自分を切り捨てず、すくいあげていく。

それが、自分を愛するということなのではないかな。

ぼくの中にはズルかったりダサかったり卑しかったり残酷だったりする自分がいる。恥ずかしいくらいいる。

恥ずかしい自分といっしょにぼくは生きている。

人に嫌われてもバカにされても、そういう自分を切り捨てないで生きていこうと思う。

最後の原稿がまた、このように行き当たりばったりで散漫なものになっている自分を、よしとして生きていこうと思う。

ニュー男子は終わりますが、ぼくの命が終わるわけではないので、今これを読んでくださっているあなたと、

いつかどこかでお会いすることもあるかもしれません。

そのときは、わたしもわたしのままでいますので、あなたもあなたのままでいてください。

嫌なヤツー、とか思いあうことになったとしても、そのままのわたしたちで会いましょう!

ごく個人的なひとり勝手なあれこれを好きに綴った当雑記にこれまでお付き合いいただいたみなさま、誠にありがとうございました。

このような場を与えてくださった「美容男子」編集部のみなさま、誠にお世話になりました。ありがとうございました。

また、いつかどこかでお会いしましょう。さようなら!(は別れの言葉じゃなくて、再び会うまでの遠い約束)

前回の記事はコチラ

【注目記事】『【ニュー男子】夏の個展「celebration!」のこと

 

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