いま、布団に横になりながらこれを書いている。
外は雨。けっこうな雨です。どうやら梅雨に入ったのかもしれませんね。
梅雨は、ぼくの生まれ月の別名なので、昔から自分ごとのような感覚があり、
数日前もテレビの司会者が「雨が続く嫌な梅雨が始まりますね」ってなことを言うのを聞き、
即座に「なんだかすみません」 という気持ちになったのでありました。
さて、どうでもいい話から始まりました本日は、どうでもいいことを書きたくてパソコンをひらいた。
どうでもいいっていうのは失礼な言い方なんだけども、
蒼井優と山里亮太の結婚の記者会見の動画を「感動スピーチ」というタイトルである媒体が紹介していて、
どんなものなのか、と2分と少しのその動画を見てみたが、なにが感動なのか本当にわからなかった。
ダイジェスト動画では、神妙な面持ちでごく個人的な思いが語られ、最後は拍手が送られ終わったようだったけれど、
これはひがみなのでしょうかね、
記者会見というある意味では公平である場所で、拍手で終わるほどに諸手を挙げて賛成的な絶対感で祝福される、
その「結婚」というものが、異性間にだけひらかれている、
日本では同性婚は、ほんの一部の条例で許可されており、国の制度としては認められていない、
その人を選ぶ制度、平等には与えられていない”称号”が、
日頃は攻防が繰りひろげられている取材される側と取材側をピースにとりもち、拍手がおくられるそのこと、光景に、
なんだかわたし、なかなかにしらけました。
なんといいますか、
そんなによいもの、すばらしいものなのだったら、それはすべての人に与えたらいいじゃないか。と思った。
個人的には、12年ほど付き合っている現在のカレと結婚したいかといえば、特にその思いは強くない。
結婚という形をとらなくてもその関係に満たされているし、
反対に形がないからこそカレとの関係にエネルギーを注ぎ続けられているようなところもおそらくあると思うから。
そんな個人の考えはひとまず、
繰り返し書いてしまいますが、
ふたりの人間が「この人とやっていきます!」と婚姻届を出したことがそれほどめでたいことであるならば、
あらゆる人にその門戸をひらいたらいいのに。
それから、蒼井優が山ちゃんのことを「山里さん」と言っているが最後は「亮太さん」というその感じとか、
「(彼女がリスペクトしてくれる)自分の仕事への姿勢を、一生、優さんに見せていきたい」
というような話をする山ちゃんを、体ごと山里方面に向けて見聞きする彼女の姿勢が、
”ナチュラルな演技をしている蒼井優”と思えてしまった。
これは「彼女が演じていた」ということを糾弾したいのではなく、
演じることを仕事にするプロの俳優という人たちに、無意識な動作ってあるのだろうか。と思ったということです。
と偉そうに書いていますが、実際、演技がなにかをわかっていません。
ただ、想像するに俳優って、動作(声、動き、姿勢など)や感情などに対して、
どこまでも意識的な人たちで、どう動くとどう見えるか、こう見せるにはどう動けばよいか、
そのようなことを日々見つめ、実際に肉体で表現できる人たちなのではないだろうか。
ぼくの大好きな映画「Wの悲劇」に、
駆け出し女優役の薬師丸ひろ子が「泣いている自分と、それを見ている自分がいるの」というようなことを言う場面があるのですが、
そのように常に俯瞰で自分を見るのが俳優なのだろうと思う。
だから、いわゆる一般的な花嫁とは異なり、
彼女が自然と「山里さん」と言ったり「亮太さん」と言っているのではないとすると、
その生き方というかあり方は、動作や感情に無自覚、無意識を「人間らしい」とする場合、人間らしくないといえる。
でも、動作や感情を自分でコントロールできる、選択できる”人間らしくなさ”こそが、
外側の現象に左右されない”マスター”と呼ばれる人なのかもしれない。
実際のところはわからないけれど、ぼくには、
会見映像の山ちゃんは人間、蒼井優さんは人間を演じているマスターに見えたのでした。
ちなみにマスターといえば「The Master」というアメリカ映画を思い出す。
映画を観て、「Master」とは超人的な力をもつ人を言うのではなく、
自分という人間の操作をマスターする人を指す言葉なのかも、と思ったのだったのだけど…….。
と、やっているとエンドレスになるので、唐突ですが、本日はこれにておひらきとさせていただきます。
本日も中年のつぶやきにお付き合いくださり誠にありがとうございました!
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