ぼくとテレビの関係は時代の影響にて変化している。
かつては、当然のように、友だちに会うようにスイッチをonして、
社会の窓みたいに思いながら延々と流れていたぼくのテレビは、
録画機能充実レコーダーの登場で、基本的にはoff。
自分の好きな、見たい番組を録りためておいて、
テレビタイムにはそれを眺め、余暇みたいな感じにたまにザッピングしているのが現在です。
常録画番組のひとつ「5時に夢中」は月曜日を先日見ていて、
ハッとしてギョ!となったブツが目に飛び込み、これは書いておきたいと思ったのが、
番組にて紹介されていたある新聞の下段にあったAC、公共広告機構の文言。
「がんは万が一じゃなく二分の一」
ひどい、信じられない!
わたしはそう心で叫びました。
だって、それ嘘じゃないですか、誇大広告じゃないですか。
いや、もしかしたら小さい字で注意書きがあるのかもしれませんよ、
たとえば、何人中何人がガンになり、だからして約二分の一なのですよ、とか。
でも、一見すると、二分の一の人がガンであるかのように思わされますが、
ぼくはそれを調べていないので、ガンかどうかはわからない。
だから、少なくとも国民の一人はその調査に入っていないわけで、
というか、そういう人は1億数千分の何人いるだろうか、という話。
つまりは、正確な数字ではない。
「わたしたちが手にしている情報によると、ほとんど半分くらいの人がガンにかかると言っても過言じゃない」
正確なのか誠意なのかをもって伝えるならば少なくともそういう話になるのではなかろうかとぼくは思う。
人間は、目を向けたものを認識し、それを真実と見なせばその人の人生に取り込まれる。
意識を向けたものがあらわれる。
それが、精神世界では基本とされる考えなのでありますが、
広告に嘘がないかを審査する機構が、「万が一ではなく二分の一」と
センセーショナルにガンを伝えることで、多くの人々のうちに生じるのは、
「50%なら自分は大丈夫か」というよりも、
「え、二人に一人はかかるんだ……!」といったものではなかろうか。
そのように意識が「だとしたら自分もガンかもしれない」と、
「ガンかも」にフォーカスすることは、ガンを患う人を増やすのではなかろうか。
ショップチャンネル的なものの、お約束的な、
「そこをもう一声」「うーん、わかりました。じゃあこのお値段でどうでしょう」「わ、やった!」
みたいな文脈での「万が一ではなく二分の一」ならまだしも、
トクホみたいな、公共のお墨付きライクな場所が、さらに新聞というある種の権威のある場所で、
そのように一度目にしたらインプットされそうな覚えやすく、強烈なメッセージを堂々と放っている。
こんな洗脳のようなことが、するりとなされていて、怒りにも似た感情がわきあがってきた。
さきほどACジャパンのHPを開いてみたら、
これは「2018年度支援キャンペーン 万が一じゃなく二分の一」というものだそうです。
いったい何を支援しているのだろうか。ガンになる人を増やすキャンペーンなんじゃなかろうか。
ぼくは現在42歳で、人生とは何かとか、人生の仕組みを語れるほどの経験はありませんが、
でも、体感として、「病気は他人事。わたしは大丈夫」という姿勢と、
「わたしも病気かもしれない。明日はわが身」という姿勢では、
後者の方が病気になる可能性は高まると感じます。
話のピントがちょっとズレるかもだけど、
たとえば、「感謝日記」を習慣にするのと「デスノート」を習慣にすると想像してみたら、そう思いませんか?
感謝を記すには感謝を探すことになり、探すからそれは見つかるわけで、
憎しみに目を向けながら過ごせばそこには憎しみが見つかるでしょう。
ACが「世界からひとりでもガン患者を減らしたい」という意図のもとに上記の広告を作ったのだとしたら、
そうした観点から見るに、逆効果なんじゃないかと思う。
むしろ、世の中からガンという言葉を目に付きにくいようにして、
「がんって何?」という人間を育むほうがよっぽど効果はあるんじゃないかな。
ifの話はひとまず、あらゆる場所に溢れかえる言葉やイメージによるあれこれは、
それを発信する人の意図をいったん考える。鵜呑みにしない必要はある気がします。
以上、なぜか寝起きで熱く語ってしまいました本日は晴天の日曜日よりごにょごにょお送りいたしました。
すてきな初夏を!
前回の記事はコチラ!!▽