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個性が消えて気づいたこと

【ニュー男子】個性が消えて気づいたこと

 

ご無沙汰しています。

この頃、すっかり超変則的なアップ具合のニュー男子ですみません。

誰に謝っているのかわからないのに謝るという、心のこもっていない挨拶をごめんなさい。

なんだろう、こののっけからの謝り祭りは。どんな罪悪感がそこに潜んでいるのだろうか。

さて、そんな風にいちいち立ち止まりがちな私が発信している当雑記ですが、

あらためて、ニュー男子とは何かを自分なりに考えてみていた5月です。

というのも、友人に、「ニュー男子は野村の日記だよね」と言われ、

え、そうなの、これは日記なの? となり、そこに若干の後ろめたさのようなものを感じたことがその発端。

なぜ後ろめたさを感じたのかというと、

日記みたいな私的で、自分のためだけにあるようなことを、

このように場をお借りし、外に向けて放っていることが、よいのだろうか、と、そうした訳であります。

そのように疑問というか課題というか問題というかが現れると、

それを自分なりに咀嚼し、とりあえずその時点で自分としての納得をしなくては先へいけないところがあり、

だからして、長い休みにもここを訪れず、5月も半分にさしかかる今日にようやっとペンをとった次第です。

いつになく前置きが長くなってしまいましたが、

書きたいことは、そう、野村の日記をアップする意味についてであります。

意味というか、本人の意識のことをまずお話しますと、

当初、ニュー男子は、記者としてたくさんの人にインタビューした経験から、

そこで得た(という立ち位置で)、日々に落とし込めるコミュニケーション術を伝える、というものでした。

が、書き続けているうちに、そのように啓蒙的なことをするのに抵抗感がある自分と気がついた。

何故かというと、自分をまっとうだとは思えないから。

というか、何がまっとうかをぼくは知らない。

自分は平凡だという思いも強い一方、平凡におさまらない質をもっている自覚もあり、

それゆえに、「私は普通。だけど普通でもない」と自認しており、

そんな人間が、上から何を伝えられよう、と思ってしまうのである。

だから、日記という個人的な日々の感想を綴るのは気が楽なのだけど、

今度は、ぼくのような非有名人の日常を誰が知りたいのか、何の意味があるのか、と考えてしまう。

けれど、その日記執筆に対し、最近強いインパクトをもたらすことがあり、

日記でよいのではないか、と思えた。

その出来事とは、わが家の猫が一匹、4月のある日に亡くなったこと。

死んだのはカミちゃんというオス猫で、室内に9匹、外に1匹の猫と暮らし、

その10のバリエーションの中でも相当に変わった猫、それがカミちゃんだった。

カミちゃんが死んで、ぼくは、たぶん人生でいちばんの哀しみを味わった。

祖父母の4分の3は亡くなっているが、誰とも一緒に暮らしたことはなく、

1年に1度程度会う関係だったこともあり、さらに、おじいちゃんおばあちゃんはじきに死ぬものだ、

という観念もあったため、誰が死んだ時も、あっさりとそれを受け入れ、涙も出なかった。

この度の死は、うちの中で生まれ、つまり生まれたその日からほぼ丸8年間を共に過ごした存在の死だったため、

きのうと同じような今日に、彼がいないというその不在は、大きな喪失感をもたらし、

カミちゃんはもういない、もう二度と会えない、という思考なのか感情にフォーカスすると、

生きていることがとんでもなくむなしく、恐ろしく思えてしまう。

ぼくの人生に、ブラックホールが生まれたような出来事だった。

カミちゃんは、耳が聞こえない男子で、それもあってかニャーと鳴くことはなく、

日本語におきかえることが不可能な、妙な声をときどき発した。

たいへん食いしん坊で、ご飯どきは、目の色が変わったようになり、

自分のご飯のみならず、人のご飯皿を器用に手を使って奪い、

猪突猛進といった風に、とにかく食べまくる猫だった。

その面白い姿は、日常だったけれど、あんがい慣れることはなく、

いつだっておかしくて、「カミちゃん、自分の食べて!」と怒りながらも、毎日笑えた。

そうした姿、彼にしかない動きをもう目の前で、現実として見ることができないのがとても寂しい。

そんな、亡くなってひと月が経った今日もまたこうしたことを綴るほどに愛しいカミちゃんの不在と

今日の雑記の何が関係しているかというと、

カミちゃんが死んだことの寂しさを一言で表現すると、

ぼくは、カミちゃんという唯一無二の個性の死に強い喪失感を感じているということなのである。

……って、ものすごく当たり前のことを書いているのかもしれませんね……。

だけど、それくらい彼は変わっていた。そしてその奇妙さをぼくはとてもとても好きだった。

でも、では、他の猫が死んだと想像したらどうかというと、

おそらくそれはそれで同じように寂しかったと思う。

めちゃくちゃ何の変哲もないことかもですが、

あらためて、生きるものは、その命は、それぞれが違っていて、

本当に、みな唯一無二なのだな、と思ったのです。

猫10匹と暮らしていると話すと、

まず「見分けがつくの?」「名前はつけているの?」と聞かれることが多いのだけど、

どちらも当然「Yes!!」どころか、鳴き声や、なんならウンチの違いすらわりとわかるくらいなのである。

そして、10匹に10匹、異なる性格があり、行動パターンのようなものも違う。

親バカ的なこともなくはないのだろうけど、猫だって、みんな違うのである。

もしぼくが死んだら、たぶん寂しく感じる人もいるのだろうと思う。

それは、ぼくがどうだからこうだからってこともありながらも、

その寂しさの根っこは、ぼくという、野村浩平という生命体の個性の喪失を寂しく感じるのではないかと思う。

カミちゃんをとても好きだけど、イライラすることも多々あったし、

全部の行動をニコニコ愛せていたとは思わない。

でも、失うと、そのすべてはまぶしく輝いている。

ぜんぶで彼だったのだと知る。

だから、ぼくも、誰の何の足しになるのかはわからないけれど、

ここにしかない、ぼくにしかない、おかしいかもしれないし退屈かもしれないその考えや物の見方、

それにより体験するオンリーワンの日常を、堂々と書いていこう、そう思ったのでありました。

ということで、100文字くらいで書けそうなことを30倍くらいの分量でまどろこしく綴る無駄満載の私に、

ひきつづきお付き合いいただけましたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします!

 

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