ここ数日、書かないと、書きたいなと思いをはせながら、まるで書きたいことがふってこない。
だけど、そういうときにこそ書いたらいいのかも、とパソコンをひらいた今日です、こんにちは。
さっき歯医者へ行きまして、
池田歯科の待合室には毎回テレビが音声込みで流れていて、
それはワイドショーで、毎度ちょっと辟易。
ふしぎです。だって、学生時代三度の飯よりテレビが好きで、
学校から脇目も振らず帰宅してはワイドショーを見たりしていた自分が、「辟易」なんて言っている。
なぜ辟易としたのだろうか、それはぼくがそこで遭遇するワイドショーでは高確率で、
政治家のスキャンダルが報じられているのだけど、その内容が、なんともなんともだからだと思う。
今日のテーマは、ある男性政治家が彼女の裸やらバックの中身やらを盗撮していて訴えられ、離党した。けしからん。
そういう内容が数十分にわたってああだこうだと論じられていた。
正直、そんなことを全国の何百万、何千万の人にむけて熱く伝える必要があるのだろうか、と思ってしまった。
現代の法律? 社会的なルールにおいては恋人間であっても盗撮は禁止されている。
たしかコメンテーターの一人がそのようなことを言っており、
盗撮がバッドだってことに異論はないけれど、「ルールだからダメ」との論調は自分にはフィットしなかった。
ルールじゃなければいいの? ってことではなくて、
ルールには従わなければならない、ルール違反だから悪だって話の展開に違和感をおぼえた。
たしかにルールがあるから守られる秩序はあるだろうし、
その秩序が保たれていることで得られる安心はある。
だけど、ルールそのものがそもそもおかしい、ってこともあると思う(盗撮がダメということに反対ではない)。
なんというのでしょうか。法律だの条例だの規則だのそれに従わなくてはいけない、
たとえそのルールに違和感があっても、
定められてしまった以上それにのっとって生きなくてはいけないと考えてしまうのはおかしい気がする。
戦争はしません。ってルールだから戦争をしてはいけないのではない。
盗撮がダメだからしませんってことではない。
戦争は正義です、自衛のためには攻撃が必要なのですというルールができたら、
そこに住まう人たちは戦わなくては罰せられるのでしょうか。
目を閉じていても飛び込んでくるワイドショーのコメントたちに、なんだかもやもやしてしまった私でありました。
では、権力が定めたルールでなければ何に従えばいいのだろうか。
一口にいえば、それは良心だろうか。でも、何が良くて何が悪いかという価値観は、人それぞれ。
自分の良心に従うとしたら、その「自分」というものが、どうした意識状態かがとても大事なのだろう。
話は飛躍しますが、自分の意識というものの最高の状態は、I am GODってところなのかな、と思ったりしている。
「私は神」としてみると、神とはなんだ、ということになりますが、漠然とした結論だけど、神は愛なんじゃないかな、とか思う。
じゃあ、愛ってなにかというと、あるがままをOKとする意識みたいなものなのかなと今日のぼくは思うのであります。
この世に偶然はない説を採用すると、起きていることは意味があって起きているわけで、すべては必然となる。
だとすると、凶悪犯罪もOKなのかというと、個人的にはNOだけど、
もっと拡大した神的視点にたつと、それすらもOKなのかもしれない。
この世は諸行無常などとも言いますが、ものすごく俯瞰してみたら、長い目でみたら、そこに善悪などないのかもしれない。
けれど、人間として生きていると、そこに良し悪し、善悪を言いたいし、決めたい。
そういう白黒わかれた世界が、ここ人間界の目下のスタンダード。
でも、この先も永劫続くスタンダードなのかといったらそうではないかもしれない。
なんの根拠もない話を、ペラペラとすみません!
だからなに? と言いますと、
人間的な善悪の意識とは別の軸に、桁違いに達観した神的、宇宙的な視点で物事を捉えることもわたしたちはできる。
その、ズームイン&ズームアウトできるこのフレキシブルさこそ、
わたしたちが手にしている自由であり豊かさであるのかもしれないな、と思うのでありました。
ちなみに、目を閉じて聞いていたら「ミヤネ屋」だ。宮根さんだ、と思っていたが、
目を開けたらまるで違う知らない男性司会者でびっくり。ふたりの声、すごく似ている!
これぞワイドショー声だなー、などと我が偏見は妙に納得をしたのであります。
本日も中年の主張にお付き合いいただき誠にありがとうございました!