鉄は熱いうちに打てというが本当だ。
あんなにいろんなことを感じたはずなのに、指の隙間から砂がこぼれ落ちるみたいにどんどん忘れてしまったみたい。
けれど、悔やんでも意味がない。いま書けることだけを書けばいい。
当日は、いろいろあった。会場をレンタルスペースのように考えていたぼくは、
とりえあず並んでいる椅子をどかしてから場づくりをしたいと思い、その作業を始めた。
すると会場の方が「いや、ちょっと待って。そういうことは私がすることです」とピシャリ。
怒られると即萎縮人間のぼくは、そんな一言で心身が硬直してしまった。
これはマズい、と思った。
少なくとも、ぼくの絵に、これから行うことに意味があるとすれば、
よい気分で描くこと、面白がって生きている時間をあらわすことだと思うからだ。
会場主さんの顔色を伺って事を行うことになったら失敗は目に見えていた。
どうしよう? ありがたいことに答えはすぐにおりてきた。
すみません! と明るく謝り、以後の動きはオーナーに相談をすること。一択。
実はぼくのことを、世の中の人は嫌っているわけではないのだ。
ぼくの落ち度を待ち構えていてすきあらば攻撃してやろうなどと思っているわけではない。
けれど、幼い頃からぼくの中のどこかにはそのような妄想がある。「人が怖い」って思いがある。
怒られたら、責められたら、絶対に傷つく。だから、怒られないように空気を読もう、顔色をうかがおう、
そんな基本姿勢が埋め込まれている。
もちろんそれはただの思い込みで、有限なる時間を損なう”不要物”だと思っている。
その不要物を除去したい、浄化したいとこの10数年はいつも思っていて、
そのために良さそうなことにトライをしている人生である。
この度の挑戦も、不要物除去の大きな助けになってくれるにちがいない。
さて、そんな風に心をたてなおし、現象」の捉え方を変えると現実は一変するものだ。
ぼくの目に映るオーナーさんは、敵ではなく味方となった。
ぼくのイメージを伝えると、プロフェッショナルなスムーズさで、あっという間に会場のセッティングを完了させてくれた。
ぼくの中の萎縮した幼な子の緊張もほぐれ、できあがった素晴らしい場に、ワクワクした気持ちがわきあがってきた。
こんなすてきな空間で、わざわざ時間とお金とエネルギーを使ってぼくたちの行いを見に来てくれる人がいる。
ありがたさが全身に行きわたった。
千田くんはコンサートを数多くをしてきているだけあって、
なににもまるで動揺している様子はなく、平然とお客さんとおしゃべりをしていて頼もしかった。
「いくよ」と、年下の彼に合図され、ぼくは80号のキャンバスへと向かった。
特に緊張はしていなかった。いや、それは、「そうありたい」という頭の見立てだった。
頭では「緊張していない」と思っていたが、体は緊張していたみたい。
いざ、観客を前にキャンバスに向かうとわずかに手が震えていた。呼吸は浅く速かった。
「大丈夫かなあ」と客観的な自分が一瞬心配になり、
俯瞰的な自分が「問題なし。この緊張も大切な一部」とぼくを頼もしく諭した。
つづく
ニュー男子 拝