
すっかりご無沙汰してすみません! って私は誰に謝っているのでしょうか。 ふいに出てきた「すみません」の言葉。ひょっとすると私、すみません慣れしているのかもしれない。
さて、ご無沙汰してしまったのは忙しかったからであります。 時間的に忙しいということもあったのですが、心がだいぶワサワサし、 あ、これをしなきゃ、あ、早く寝ないと! と、 自らが勝手にこしらえた「ねば」に追い立てられ追いまくられいつの間にやらセプテンバー。
人生経験40年超えの中堅ではありますが、 いつの夏もあたらしい夏であり、あたらしい9月であり、 慣れる部分はありながら、ドキドキしてしまう心もいまだ健在。
と、あいかわらず無駄に長い前置きはここまでとし、 今日は個人的にハードだったこの夏の発見をシェアしてみたいと思います。
もっとも大きな気づきから発表しますと、 先日「ダンスで病気を治す」的ワークに参加したところ、 数年ぶりに行ってみたそれは進化をとげていて、一切踊らないダンスワークとなっていた。 音楽の流れるスペースにただ寝転がっているだけという斬新なダンスは数時間つづき、 その間、ふしぎと眠くならず、なぜか体はまるで動かず、次第にインナートリップ。
目を閉じたまま身じろぎもしない時間というのは、日常のようで非日常である。 体はあるのだけど、動き動かすいつものそれとは違い、この時空間での体は、ほぼ感覚のみ。 しかも、絶対王者的視覚から触覚、味覚もオフ状態のため、耳と鼻がとても鋭敏となった。
こう書くとちょっとカルトっぽくてぼくもひきそうになりますが。 そこは広い一軒家でいて道場的でもあり、主催の人たちはそこで寝食もしている様子で、 おそらくワーク中もなにやら調理している人がいたと思われる(実際にいたかはわからない)。 というのも、なにやら匂いがしてきたのです、野菜的なものをどうにかしたような匂いが。
そのスメルを嗅覚が捉えるや、ぼくはなんだか気分の悪さに見舞われた。 とはいえ、それは異臭ではなく、ふだんならなんら気にしないたぐいの匂い。 では、ぼくの気分の悪さはどこからやってくるのだろう? そうインナー探索しているうち、昔のことを思い出した。
何歳くらいまでかは覚えていないが、ぼくは母以外の誰かのご飯がとても苦手だった。 飲食店のものやスーパーの惣菜などは平気ながら、 たとえばご近所の誰かのお母さんのご飯は気持ち悪く思えたし、 ひどいことに、実のおばあちゃんのご飯さえもかなり苦手で、 夏休みに帰省した際は、みんなが和食的な朝食を食べるなか一人で既製のパンを食べた。 (どうしてみんなが平気に食べられるのかわからなかった)
ワーク中、そうしたメモリーがよみがえり、 さらにさらに記憶はさかのぼられたどり着いたのは「ぼくは人が苦手」ということだった。 びっくりした。なぜって、ここ何年、何十年の自覚としては「ぼくは人が得意」だったから。
発見その2もこれと同じようなものなのだけど、 ある人から「野村さんは話すのは苦手かもしれないけど」とサラりと告げられ、 その場は社交辞令を聞き流すように気にも留めなかったが、 後日その録音を聞いた瞬間、衝撃を受けた。 あっ、そうなのか! そうか! ぼくは人と話すのが苦手だったんだ!!! 雷に打たれたとはこういうことを言うのだろう。
ぼくのそもそもは人が苦手で恐ろしく、 許されるものならずっと安心な誰かの後ろに身を隠しながら生きていたい人間だった。 とうぜん話すことも苦手で、つねにもじもじし、人の目を見ることは非日常で、声もうんと小さかった。
それがなんの因果か週刊誌の記者となり、 取材の交渉的なやりとりや、初対面の誰かにマンツーマンで話を聞くことが日常になった。
嫌なら辞めればいいし、はじめからやらなければいいという話も当然ある。 けれど、ぼくは苦手だし怖いのだけど、それを上回る「やってみたい」という好奇心があった。 だからその職を希望したし、続けることができた。そういうことだった。
これを読んでいる中にも、ぼくのような人生を歩んでいる人もいるかもしれませんね。 そんな方もしもいましたら、いったん「自分はそれが苦手だった」という出発点に立ち返ってみると、 なかなかに癒されるのではないかと思いますよ。 少なくともぼくは、苦手に取り組み今日までやってきた自分というこの人に、 なんともいえない切なさと愛しさと心強さとを感じられました。
だいぶ長くなってしまいましたが最後にこれは言わないとですが、 ナウのぼくは、お母さんの料理じゃなくてもぜんぜん食べられるようになっています、 知人友人がつくってくれたご飯をおいしくいただける人間へ進化しておりますので、 今後ともよろしくお願いいたします!
以上、何を書いているんだろうこの人。
ってな謎雑記に最後までお付き合いいただき誠にありがとうございました!
ニュー男子 拝