前回、友人との2時間の語らいの感想をここに綴ってみましたが、
本当はその会話にて、ニュー男子においてのもっとよいネタをもらいまして。
それは「パートナーシップ」についてでございます。
いや、もちろん彼とのあれこれをこれまでにも書いてはいますが、
正直、こんな人間のそんな話に何の意味があるのか、いわゆる”価値”を自分では感じられておりませんで。
なぜなら、ぼくにとってはあまりにも普通の話なもので。
けれどそれについて彼女は、たとえばゲイの人たちの出会い方や恋愛観とかって、一般的な男女のそれとは違う部分もあるし、
野村さんのパートナーシップ観が目から鱗の人も多いと思うよ。
と言ってくれ、ならば! と一般中年ゲイの恋愛模様をもっと書こうじゃないか、となった。
ということで、しょうもないかもしれませんが、しばし私の恋バナにお付き合いいただけたら幸いです。
と、誰かが許可してくれたことで、はれてそれを解禁できる心持ちとなったものの、さて何を書いていいのやら。
さしあたって脳裏なのか心なのかに思い浮かんでいる言葉は「この人でいい」。
そう、運命的な相手を求める人は多いのかもな、と思うとき、
ぼくは「この人がいい!」ではなくて「この人でいい」という感覚ってけっこう大事なのかも、と感じていまして。
といっても、個人的な経験上「この人でいいか」ってな妥協的スタートでの恋愛は、
どこまでいってもぼくの場合、微熱感といいましょうか、どうも燃え上がることはなく、
そうしたなんとなくの居心地の良さはふとした瞬間に物足りなさへと転じ、自分にも相手にも嘘をついている罪悪感が常態化。
よろこびであるはずの恋人とのひとときが、いつしか義務となり、けっきょくは、ささいないさかいを起こし起こされ別れへとGOAL!
”付き合う”という口約束をしなかった場合も含めると、そういう短い恋をちょこちょこしていたかもなあ、の20代でありました。
そんなドリル的恋愛(毎回同じところにつまづく感じは学生時代の勉強みたい)を経て、
10年継続中の未曾有の恋人関係をもっかは体験中なのですが。
傍目にはどのように映っているのかわからないけれど、当事者としてのこの10年は実に山あり谷ありで。
ああ、この人といられて本当に最高だなあ、としみじみ思う朝もあれば、
なんでこの人とここでこうしているんだろう、と冷や水を浴びせられたかのような夜ももちろんあって。
そんなときに頼りになるのは「この人がいい!」ではなく、「この人でいい」であり「この人はいい」というものだったりします。
実際、ぼくには真実、真理がなにかはわかりませんが、
目に見え、ふれることのできる外側の現象は、自分の内側の状態(感じ方、考え方など)の反映にすぎないという説をいったん採用すると、
どの人だからどうということではなく、自分の幸を決めるのは常に私。
となると、運命の相手というものは、誰でもよい、ということになるのかもしれません。
身近に事例がないまま適当に書きますが、
お見合いで1発目に出会った人とつべこべいわず結婚し、死ぬまで添い遂げたという夫婦、カップルって世の中にはたくさんいるのではないでしょうか。
そうした当人の心情を想像で綴ってみるならば、「この人でいい」ということなのかもなー、と思ったりして。
一目惚れから熱烈に始まった恋であれ、
「ぎょい」ってな感じにあてがわれた相手を受け入れた場合であれ、
その関係性をつづけていくには「この人でいい」というある種の諦観や”やっていく”という覚悟が必須なのかな、と思うのであります。
そしてそんな際には、「この人はいい」という個性の肯定、人格の尊重、
自分とは異なる人生を歩む孤独な魂への尊敬のようなものを今一度心に刻めば、
マンツーマンの関係場におきる荒波も、きっと乗り越えていけるんじゃないかなあ、と思う。
たかが10年ひとりの人と暮らしただけで(経過年月が重要ということでもないが)偉そうに誠にすみません!
でも、人生41年目とはいえ、今がぼくの晩年という可能性もあるので、ひとまず今日思うことを今日発表させていただきましたぞ。
以上、本日もうだうだ雑記に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
ニュー男子 拝