迷うときって、どちらでもいい、ということでもあるかもしれませんよね。
ゆうべファミレスへ行きまして、あまたのメニューにもちろんのこと迷いまして。
選択肢の方向性があちこちとあるファミリーレストランって、迷いの宝庫なんじゃないかとよく思う。
たくさんあるほどいいでしょう、豊かでしょう? という意識でそう展開してくれているのかな、と思うが、
お腹が空いている自分としては、その心遣いありがた迷惑なんですけど、ってなスーパー身勝手気分の昨夜。
そうして注文を決め終わり「ていうか。自分の望みははなからわかっていたじゃないか」となった。
なぜなら、10分強ああだこうだして出した結論は、いの一番に目に飛び込んできたそれだったから(ちなみにすき焼き定食)。
あ、これだ。と実は気がついていながらウロウロしてしまう心とは、
たとえば、カロリーが高いとかちょっと高価だとか、きのうも似たようなものを食べたなど、
選択に待ったをかける第二、第三の声に惑わされてしまうからなのかもしれない。
そして、かなしいかな頭の提案するさまざまなメニューのどれにももれなく一理あるのである。
けれどもしかすると、店を出た直後に事故にあって死ぬかもしれないという”日々最後の晩餐状態”を人生の本質とするならば、
自分がもっとも欲するものを自分に与えることこそが、”正しい選択”なのかもしれぬ。
そんな”迷うこと”からはほんのり話がズレますが、AかBかそれともCか的なことでいうと、
自分の中にうまれる考え、発想、意見みたいなものにも日夜わたしは振り回されておりましてね。
でも、存在するものにはまずは表裏があり、さらにそのどちらの側にも様々すぎる角度があるため、迷うことってあんがい自然なのかもしれない。
さて、前回「彼の気分へ口を出した」ってなことを書いたのですが、口を出すことを良しとする自分とは、
彼の態度やら考えは、ぼくのそれよりもよろしくないってな判断があったということかなと思い、いまだ反省気分なことはさておき。
じっさい相手の胸の内、思考回路がどのような状態だったのかはわからないが、
ぼくが”彼はわかっていない”などとみなすと、不思議なことに彼の一挙手一投足がそのように見えてしまうのですよね。
「うちの旦那は気が利かない」という視点がこびりつくと、
ただ自分が”あの人は気が利かぬメガネ”をかけているからそう見えているだけなのに、あらゆる言動が「やっぱり気が利かないわー」となってしまったりする。
そんな風にして「ほら、また」「それ、今日も」と、わが見立て正しいポイントが加算されまくった暁には
「それは真実」との確定印が押されてしまい、あなたとはこれまで! と三下り半。
わかっちゃいるけどやめられないのが人間なのかもしれないけれど、
自分が装着している曇りメガネをどうにかしない限り、永遠に不満は終わらないのかもしれません。
逆に考えると、「あなたのメガネ曇ってますよー」とどこまでも教えてくれるために世界があり、誰かが目の前に現れるのかもしれませんが。
以上、本日も書きながら迷っている迷走雑記にお付き合いくださり誠にありがとうございました!
ニュー男子 拝