さて、「次回へつづく」などと前回の雑記をしめてみたいつかの私。
今日の私にしてみれば「はて、なにをつづけたらいいのだろう?」 と疑問なわけですが、
答えとしてはおそらく、タイトルの「スーパーアンビバレンス時代」のつづきを書くことなのでしょうかね。
ということで、また思い出話をしてみますと、
振れ幅の激しい内的葛藤は、だいたい小学生の高学年くらいに始まり、ピークは24、5歳の頃だった気がします。
いちばんの問題は、自分の性的指向を受け入れられないということでしたが、
大人になって同胞メイツとそうしたことを語らう機会に恵まれ、驚いたことがあった。
それは数年前、「女性自身」という週刊誌で7ページのLGBT特集をまかされたときのこと。
編集者は異性愛者の女性でしたが、カメラマン、記者(ぼく)、企画の監修者、取材対象者などはほぼみんなゲイという、
まるで新宿二丁目のようなセクシュアリティのバランスでつくりあげた大変印象深い仕事なのですが。
その取材時にゲイへの目覚め的な話が始まり、
ある人は、小学生のいつかに自覚し受け入れ、すぐに家族に伝えた(家族も即、受け入れた)。
カメラマンTくんは、初めてカレシが出来た中学時代に、カレを実家に招きカミングアウト(好きな人を「好きな人です」と家族に紹介したかったのだそう)。
Bさんは、高校時代に目覚め、受け入れ、けれど田舎の地元ではこれは受け入れられないかもと考え、大学進学の上京を待ち、東京でのゲイデビュー。
死にたいほどに追い詰められ、悩みまくり、神を親を先祖を恨み、
性的マイノリティに生まれることとはイコール生き地獄を経験するものと思い込んでいたぼくは、彼らの半生に「なにそれ!!!」と衝撃を受けた。
けれどその場においてはぼくの捉え方こそが少数派で、
あらためて自分の世界とは、自分の意識(見方、考え方など)で構築されるのだなー、と思い知らされたのでした。
では、なぜゆえ自分がこんなにもゲイが受け入れられなかったかを考察してみるに、
資質、性格の傾向など生まれ持った個性のようなものが大きいのはもちろん、家庭環境の影響も強大なのだろうと思う。
うちは、会社員の父と主婦の母に文系気質の男3兄弟という5人家族なのですが、父は超勤勉で忙しく、家庭は母の城だった。
世間的には父が世帯主であったが、子供であるぼくの感覚では母が君主。
子らは基本的に母の価値観に従うことがあたりまえとされ、外部との接触もそうなかったぼくにとって、わが家の暗黙の法は絶対的に絶対だった。
たとえば当時の母は「男がピアノを弾けるのはかっこいい」という価値観をもっていたため、3兄弟は有無も言わさずに小学校にあがるとピアノを習わされた。
ほかにも書道やら水泳やら少林寺拳法やらと習い事をしたが、どれも自分がやりたいものではなかった(やりたいことがなかった)。
そんな母はテレビなどでスペシャルな人をみると「わが家は平凡」と口にし、「よそはよそ、うちはうち」ともよく言っていた。
なもので、「うちは平凡。自分も平凡」と信じ込んだぼくにとり、
かっこいい男子にばかり目がいくnot平凡な自分の一部を受け入れることは、
もともとの質とあいまってさらにハードなものとなったように思う。
それくらい幼き自分にとっては家族が世界のほとんどで、
ある種安全なそこから排除されることなど、想像すらしたくないほどに恐ろしいことだった。
そうした生い立ちにより、
ありのままの自分を、あるべき自分が圧死させようと猛烈に圧力をかけまくるという暗黒ティーン時代がスタートしていったのかな、と、
今は思うのでありますが、そんな単純なものでもないのかもしれぬ。
って、web世界の片隅を占拠し、みなさんをぼくの自己セラピーに巻き込みましてすみません!
でも、乗り掛かった船。優しい雨。おそれいりますが、もうしばしこのテーマにお付き合いいただけましたらこれ幸い。来週へつづく。
ニュー男子 拝