友人からとある歌のyoutubeが送られてきたことを機に、
その楽曲からああだこうだ、と、やりとりは弾み、
最終的にはなぜだか「考えない才能」(by Yくん)というすばらしきフレーズに到着した。
ぼくは子供の頃からよほどおしゃべりだったのか、母から繰り返し、
「よく考えなさい。考えてから話しなさい。話すのは思っていることの半分くらいになさい」などという言葉を刷り込まれ、
ご覧のように、愚にもつかないことを延々と考えてしまう人間となり、
人との会話において、思っていることの半分も口にできないことのほうが圧倒的に多い仕上がりの私。
だからして、このような雑記を毎日のように書くことが苦じゃないくらい言語化して放出したい何かがたまったとすると、
今となっては、そのような環境もまた自分の個性であり、その教えを受け入れることも人生の必然だったとも思う。卵が先か鶏が先か。
けれどもし、そのように躾られなかったとしたら人生は大きく違ったかもしれない、と苦々しく想像するほどに、
思考グルグル&思っていること抑圧ロードというのはしんどく、
そのストレスがスピリチュアル世界へとぼくを運んだのであります。
そんな風にして30代のどこかから、スピリチュアルティーチャーの話を聞いたり施術を受けることに超ハマり、
ちょっとお金に余裕が生まれれば、旅行に行くようにそうした機会へ時間、お金、エネルギーを投じた。
そうして、男性、女性、ゲイ、日本人、外国人、対面、講演、マンツーマン、スカイプ、肉体アプローチ、精神アプローチと、
いろいろな人、形のスピ時空を経験し、当然それはさまざまだけれど、
ただ一言で彼らの教えの共通項を表現すると、みながみな「ゆるみなさい。ビー・リラックス!」と言う。絶対に言う。
じゃあ、どうしたらゆるめるのよ、と言えば、ひとつには「考えない」ってことがあるのだろうと今日あらためて思ったでした。
考えるってすごくすばらしく、人間が人間であるための必須作業ともぼくは思うが、
スピリチュアル・マスターたち曰く、
思考という力はどうやら、「パワー」というより「フォース!!」といった相当に強烈な能力のようで。
なにげなく、あたりまえに、考えることもなしにできてしまうほど手軽ながら、
彼らの言うように、人生を決めてしまいかねないほどの威力が思考にあるとするならば、
私たちは、考える、思考の取り扱い方をマスターする必要があるのかもしれない。
そして、
マインドフルネスとかヨガとか瞑想など、グローバル企業のエリートはやっています、みたいな昨今的そうしたアクションとは、
言ってみればどれも”思考のマスター”のためのそれであり、
どのように考えるかってなベクトルではなく、「考えない時間をつくる装置」なのかもしれません。
ということで。ぼくに限らず、考えることは善。ってな価値観をもち(もたされ)、
知識や情報を吸い込み、その知的な刺激を使い、考える。ってな作業が日常的になっている人がもしもいましたら、
何十年単位でそれはやった。黙っててもそれをする私が育った。のだから、
ある種のその偏りをならすべく、なんにも考えない。思考レスというニュー刺激を与えてみるのも面白いかもですね。
ない贅沢。ないよろこび。ないというある。
って、考えてばっかりのお前に言われてもな! という話だったら誠にすみません。
さて、そろそろ正午。大好きな「メレンゲの気持ち」見なくちゃいけないので、ごきげんよう!
ニュー男子 拝