わが家には9匹の猫がいて、彼らはみなひとりの母から生まれた姉弟。
女が5匹、男が4匹という構成であります。
勝手なる思い込みかもしれませんが、
男子のうちの2匹をゲイなのでは、と人間ゲイのぼくとカレはそうみています。
2匹のうちの1匹、Eくんは、いいこだからイーくん! と命名したことが皮肉に思えるほど、とにもかくにもワガママに成長。
人が気持ちよさそうに寝ているところへ出向き、先人をどかしたかと思えば、また別の寝床の誰かをどかす。
そんな風に彼は、超自分中心に日々を過ごしている。
そのEくんと似ている(まあ、全員似ているっちゃ似ているけど)おしりくんというオス猫は、
ぼくのことが特別好きなようで、目があえばよってきてニャーニャー鳴くのが日常。
彼が子どもの頃には、ぼくが出張で家を空けた数日に元気がなかったこともあるほど。
その2匹はオス同士なわけですが、小さなダンボールで密着して寝ることが多く、
Eくんが熱心におしりくんの毛づくろいをしていた数分後にはパンチをしあい、
そのまた数分ののちには何事もなかったかのようにまたいっしょに寝ていたりする。
その様を見ていると、どうにも彼らは友だち以上恋人未満というのか、
ただの兄弟とはちがう特別な間柄のように感じ、彼らはゲイなんじゃ? と同胞意識で見るようになったのであります。
さてさて、そんな猫屋敷のわが家で先ほど、
ウーウーとの唸り合戦が聞こえたかと思うと、
珍しくとっくみあいの”実践”に移ったことが音などからわかり、
その声が激しくなったので耐えられず、あわててトイレからでた。
子どもの喧嘩に親が口を出すな、というフレーズが記憶されていることの影響か、
猫の喧嘩に人間が口を出すなんてナンセンスと思うのですが、
家の中で争いがおこることが我慢できず、「なにやってんの!仲良く!」と一喝。
猫との暮らしは7、8年になるのだろうか、
彼らの食住の世話を勝手にしつづけるうち、さらに勝手にぼくは子育てをしている感覚となった。
人間の子育てをしている友人などが、「子どもに育てられる」と言うけれど、
猫9匹との毎日に、ぼくも猫に育てられているなあ、と思う。
たとえば、先ほどの「仲良く!」という指示は、
ぼくが子どもの頃に兄と喧嘩をしていた際によく母に言われていた言葉だったりする。
それが、こうした咄嗟の場面で考えもなしに口からでることで、わが思い込みに気がつく。
ぼくは「人と仲良くすること」を絶対の善として生きてきたのかもしれない。
しかしそれは、当然のことながら絶対善ではなく、
たんに母からインストールされた概念にすぎないのでありましょう。
その母は、彼女の母や父などからそれを”良し”と埋め込まれたのかもしれず、
こうしたことを「カルマ」や「先祖からの継承」と呼ぶのかもしれません。
そんな風にぼくは、猫と暮らすことで親気分を味わっており、
彼らへの接し方に自分が受けた教育を見て、
ぼくを形成する”あたりまえ”から、今は不要となったものの削除を試みています。
ちなみに本日の「人と仲良くする」については、半分削除が目下の気分。
人と仲良くすることは、平和運動ともいえ、大切にしたいことではありますが、
人と仲良くすることが第一義になることで自分を変形させてしまうのだとしたら、
その”仲良く”にはあまり意味がないのかもなあ、と思う。
ということで、自分に無理のない範囲で人と仲良くを心がけよう。
あらためて、そう自答したのでありました。
そんな今日は実家にて母と忘年会をする予定。
お酒を飲むと会話の多くは忘れてしまうのですが、
彼女の子育て当時の思いを取材してこようとおもっています。
以上、最後までお読みいただき誠にありがとうございました!
ニュー男子 拝