過去の記事に詳細があるのですが、
ただいま私、28日間におよぶスピリチュアルなレッスンをしておりまして。
毎日、課題のようなものが掲げられ、連日、自分と向き合うレッスンは、
本日「自分で選択をする」ってなことがテーマであります。
選択についてどうしたことが本に書かれているかというと。
過去のいわゆるトラウマ的な出来事を心に浮かべ、
その出来事がもたらす自分の感情を意識しながら、
いつか”ネガティブ”のレッテルを貼ったそれが、
もしも自分にとって必要ななにかをもたらしたのだとするとそれは何かを自問せよ、とのこと。
さっそくやりました私に浮上してきた感情は、
怒り、哀しみ、あきらめ、不安、恐怖などなど負のそれ一本。
けれど、理性的な自分が静かにかつての出来事を思い返すと、
数年や数十年を経た、嫌な出来事を通過した今日のぼくにとり、
なるほどその経験、体験は必要だった、と思えた。
出来事の具体は省きますが、
それを”必須経験”とする視点で眺めると、
たとえば当時の自分が、さまざまなことに「NO」を認めないことにより、
あらがえないほどの「NO!」の体験をさせられたのかもしれない。
それがあったおかげで、自分が何に苦痛を感じるのかへ目を向けざるを得なく、
「なんでも受け入れられます」という理想の自分と実際の自分のズレに気がつくことができた。
そんな風に過去の出来事を再度感じ、
それがあったからこその現在の自分なのだとすることが、
”経験の自覚的な選択”なのかな、と理解した午後であります。
もちろん今日がハッピーならば、
こんな面倒臭いことはまったくの不要。
ですがもしも、あの時のあの一言に傷ついた!
ってなことが長年じゅくじゅく癒えないのであれば、
時と経験を重ね、かつてよりもたくましく変化した今の自分により自覚的に選択しなおすことで、
「被害者をやめることもできる」という情報を知っているのは無駄ではないのかもしれません。
ちなみにぼくが思い出したトラウマのひとつは、
小学生の頃に駄菓子屋で商品であるお菓子をふざけていくつももっていたら、
「どうせ買わないんだからさわるな!」というように注意をされた。というものでした。
何十年前のそんなささいなことを、こんなにも握りしめている自分にびっくり。
けれどまだ、その日の気持ちさえも覚えているのだから、
よほどローティーンのぼくにはショックな言葉だったようです。
そして、実際の出来事がどうあったかではなく、
自分がそれをどのように捉えたのかがその出来事の意味となるのだなあ、
とあらためて思ったのでありました。
以上、レッスンが本日でちょうど折り返し地点のわたしから、
いつかどこかは画面前のあなたによもやま言わせていただきましたよ。
ご清聴いただき誠にありがとうございました!
ニュー男子 拝