ただいま時刻は18時44分なのであります。今夜の夕飯はカレーなのであります。
さて、昨日のつづきをつづけますと。
「マトリックス」だの「センス8」だのは、いわゆるジャンル分けするとSF作品となるようで。
ぼくは、これまでの人生でそれなりに映画(ビデオ、DVDが主ですが)を見てきたと思っていますが、
SFものというのにはまるで縁がなく(縁というか興味の問題か)。
SFをスーパーフィクションの略とすると(予想)、
その”超現実”をぼくは「嘘・つくりもの・妄想」と捉え、”そんなものには付き合えませんよ”とばかりに興味レスだったわけですが。
SF映画を「人間社会への想像的探求を視覚で味わえるバーチャル空間」と考えると一気に興味がわいた近年。
そんなSF的作品で今回すごく気に入ったのが「ミスター・ノーバディ」という映画でございます。
内容はネットで調べられるのでスルーし、作品から感じ、考えたことを書きますと。
2時間強の鑑賞を経て、この現実と呼ばれるものの見え方がすこし変わってしまった気がする。
たとえば、自分が行うことのすべては、宇宙というただ一つの空間? 生命? にどのようなことでさえ必ず影響を及ぼすものかもしれない。
なぜならすべてはつながっているのだから。
なにをしようと、しなかろうとも生きているということは、全部の一部として存在しているということ。
小麦粉と水と砂糖と塩と菌で「パン」とすると、
そこに含まれる砂糖は砂糖でありながらパンであるように、
ぼくはぼくながら、地球であり、宇宙であるのに違いありません。
「ミスター・ノーバディ」には子供が生まれる親を選ぶ、ってな場面があるのですが、
面接するようにいく人かの異なるペアが映り変わるシーンを見ながら、
ああ、ぼくはあの両親のもとに生まれたのだ。生まれたくて生まれた。彼らの子供なのだ。だからこそのこのぼくなのだ。
などということを、じんわりと感じたり。
主人公の妄想かパラレルワールドかは判定できませんが、
彼の3人の女性との出会いと別れが描かれており、
あのときこうしていたら、こうなった。こちらを選ぶとこうなった。
という誰しも一度は考えそうな「if」が映像化されており、その三者三様のドラマが面白かった(自分の恋愛遍歴を回想した)。
右足から靴を履くか左足にするかも、選択。
なにかを選ぶということはなにかを選ばないということでもあり、人生とは常に選択の連続なのでしょう。
「創造」と表すと大げさに感じますが、
誰しもみな”選ぶ”ことにより、以後の現実を創造している。
つまり、われらはもれなく創造者なのかもしれない。
そんなこんな、見る前には考えなかったことを熱心に考えたくなる映画と出会うと興奮しますよねえ。
I am 精神のうれション状態!
そんなわけで、NET FLIX体験記はさらに次回へ。
ニュー男子 拝