最近、夢中になっていることがありまして。それはテレビドラマを見ることであります。
その作品は「マスター・オブ・ゼロ」というニューヨークを舞台にした、
マイノリティーたちが主人公のドラマなのでありますが、
なにがどうということを一言であらわせないのですが、すごく面白い。
きっかけは友人が「知ってる? 面白いよ!」と会ったときに教えてくれ、
後日、メールで詳細まで送ってくれ熱心に魅力を伝えてくれたこともあり、重たい腰をあげて見始めて数日。
今日のやることはそれ。といったばかりに、ほとんど自動的に観賞する夜がつづいています。
あまり細かいことを書くと、これから観る人の妨げになるだろうから書きたいけど、書きません。
ただ支障のなさそうなところでいうと、地味なことですが、
日本のドラマだと(海外のものもそうかもですが)、
たとえば1話は45分間とか、決まっているものですよね?
それがその作品は、1話完結ながら尺(長さ)が毎回違うのですよ。
しかも、21分だったり36分だったり、なんというかまちまち。すごくフレキシブルなのです。
それから、その内容というか流れというのか、
撮り方みたいなものも決まっているものが定番な気がしますが「マスター・オブ・ゼロ」(特にシーズン2)は、
そのようなセオリーに則っておらず、
同じドラマだよね? と一瞬不安になるような展開の回があったりします。
そんなことから思い出したメモリーがひとつ。
もう10年以上前のことですが、カルチャー誌で連載をやらせてもらっていたことがありまして。
とても贅沢なことに、編集者もカメラマンもディレクターのような人もライターも、みな友だち同士で、
毎月の撮影は、ほとんど遊びのような感覚で行っていました。
正確なことは忘れましたが、
たしかその仕事が当時週刊誌の専属記者をしていたぼくにとって初めての”外部の仕事”で、
文章のディレクション(説明が難しいのですが、編集者とは別に原稿をチェックする人がいて)担当の友人から、
ぼくが「何文字で書く」ことを当然と考えることについて、
「どうして書く前にそのように枠を決めるのか」と指摘されたことが今も忘れられません。
いや、だって。ライターってそういうものでしょう。
原稿は、文字数に合わせて書くものでしょう。
当時は”そういうもの”と決め込んで、疑うことがなかったわけですが、
言われてみれば、友人チームである程度好きにつくることを許されていた企画に、
その”常識”は不要だったのだ、と今は思います。
以後、週刊誌での仕事においても、文字数がレイアウト的に決定していない場合は、
まず書きたいことを書いてみて。その原稿がOKであれば、その文字数が入るようにレイアウトをしてもらう。
といった、あたらしいやり方にもトライさせてもらうこととなりました。
押し付けられていると感じる枠は不自由さを感じられたりして自覚をしやすいけれど、
実は、自分が勝手に思い込み、こしらえている枠というものもあるのですよね。
そんな透明の壁の存在に気づき、それを不要と感じるならば取り払う、突破する勇気をもちたいな!
と、挑戦心たくましいドラマから思い出せてもらっている本日の私であります。
NET FLIXなる有料(「でもひと月は無料。ドラマは数日で観られるし、観て解約すれば無料で観れるYO!」と友人A)チャンネルでしか見られないドラマゆえ、
勧めるのも気がひけますが、もしもご興味をもった方はぜひに! なにかしら思うことあるドラマかな、と思いますよ。
以上。どこぞのまわしものみたいな本日のぶつぶつにお付き合いくださり誠にありがとうございました。
ニュー男子 拝