先日、個展をいっしょにひらいた彼女と車で30分かからないくらいの距離にある温泉へ行った。
友人Kは大の温泉好きで、地元・福島にすごいお湯場がたくさんあるのにもかかわらず、
東京でも温泉へ行きたがり、ソファーで寝てしまった人にそっと毛布をかけるようなさりげなさで、
夜に温泉へ行くのもいいね。などと何度か口にし、
そのめちゃくちゃ低圧な提案を耳にしていたからか
ぼくも温泉へ行きたい気分になってきて、行ったのであります。
夢は口にだすと叶うというのは本当だ。
そのように彼女の夢を叶えるべく車を走らせながら
理想の現実化の法則をあらためてかみしめていた8月のある夜。
世界的マジョリティーのノンケ(同性愛のケがないという意味)の皆さんがもしも同性愛に憧れるとしたら、
それは大浴場にて、同性の裸が好き放題見られることじゃないかしら、と思う夢の同性愛者のわたしですが。
透明人間にならずとも性的対象者がわんさいるお風呂に入れる立場からいわせてもらうと、
堂々とさらされた裸というものには、あんがいとそそられないものなのですよ。
スポーツブラ(まるで興味がないので実際それがなにかはよく知らない)じゃアガらないってなテンションで、
ブラブラゆれる男性器などをただの物体として目の端で認識し、
透明人間の実際はこんなものです。などと、湯につかりながら静かに思ったのは、
もしかするとぼくが中年になったからなのかもしれない。
そう、そういえば、ぼくはいつかの修学旅行でお風呂に入らなかったのだった。
クラスメイトとの大浴場で勃起などした日には、いったいどのような事態になるのかと恐怖に襲われ、
風邪気味と嘘をついたのか、入ったように見せかけたのか、
自分を空気化して誰からの注目も集めないようにして部屋に居残ったのか
その詳細は忘れたけれどとにかく、ぼくはお風呂に入らなかった。
それだけ欲情的価値があるものとして大浴場を捉えていたかつてがあった。
いやいや違う。大浴場観は年齢による感性の変化というよりも、
見ず知らずの誰かの裸と、クラスメイトのあの人の裸はちがうということ。
学生服姿しか見たことのない友人の初めての私服姿になにかしらを思わずにいられないように、
服を着た友人の裸の姿というのはインパクトが強いという話であろう。
って、まるでお風呂がテーマの本日のようですが、実はそんなことが書きたいのではなくて。
話を冒頭に戻しますと、
その彼女が展示会場でホロスコープリーディングを希望者に有料で行ったのですが。
別室で行われたリーディングを受けた人の事後の顔、表情が皆、
まるで湯上りのように上気し、すっきりとしてやわらかくてとても驚いたってことを言いたかったのです。
ぼくもリーディングを受けたことがあるので、その何故はわかります。
一言で表すと、彼女が星の動きと直観から、
対峙した者の人生におおきな可能性を読み取り、それを繊細な言葉で伝えてくれるからです。
他人が誰かに与えることのできるもっともすばらしいことは、
その人の可能性をみる、信じることじゃないかとぼくは思う。
過去や現在がどうあれ、
「いや、あなたはそんな人ではなくて。実はこんな広々とした世界の住人なんですよ」
そんな風に確信的に可能性を伝えられ、かつその可能性の芽を自身が信じられるのだとしたら、
その瞬間から未来の行き先はカチっとルート変更されてしまうに違いない。
ということは反対に自身の可能性の芽をつみとるようなお喋りは、反湯治的、有毒なものかもしれません。
そのようにお喋りを温泉につかるくらいの影響力がある行為なのだと意識して行うと、
無用な落ち込みをある程度避けることができるように思います。
そして。言うまでもなく温泉には心身を活性化するパワーがあり、
エネルギーが枯渇した際には、お湯だのみしてみるのも得策かもしれませんよね。
以上。楽を求めてなにが悪い。を合言葉に
本日も楽なルートを選んで生きたいアウトロー男子の戯れ言にお付き合いいただき誠にありがとうございました!
ニュー男子 拝