インスタグラムを始めて2年くらい経っただろうか。
そろそろ慣れてもいいころなのだけど、いまだにぼくはインスタとの付き合い方がつかめないでいます。
目下の私のインスタ観はといいますと、
SNS全般がそうともいえますが、
画面上に村のようなものの存在を感じていて。
インスタグラムは、いいね。的アクションとしてハートマークを押し、
投稿への自分なりの好感を示すことができるのですが、
たとえばその「いいね」は、押したら押し返すことが、
なんとなくのマナーのなのかなあ、と思ったり。
人間がやっていることなのだから当然かもしれませんが、
そうした暗黙の規範のようなものがそこにはあるように思え、
そんな自らの捉え方により、ふるまいに制限をおぼえてしまう面倒臭い私。
こんなことを書くこともまた、
インスタを楽しんで行なっている人にどのように思われるのか。
という不安心に見舞われる自分のような八方美人タイプは、
ああしたことを生活にとりいれることによる喜びよりも
恐れのようなものが大きくなりそうなのだから
やらなければいいんじゃないか? と、もちろん思う。
けれどつづけているのはたぶん、手軽で面白いからです。
手軽さは、いうまでもないかと思いますが、
片手でさまざまな人の本日のハイライトのような一瞬を
画像中心の視覚的表現としてパッと味わえることにあります。
その表現には、もちろんのこと各自の傾向があり、
なにをその人が他人、世間に向けて放ちたいのか、どのように表したいのかという、
価値観や個性のようなものがみてとれることもいとおかし。
また、ツイッターやフェイスブックに比べインスタグラムは、
写真(または動画)付きってことが前提で、かつ、
フェイスブックのように自分が共感した記事をシェアする的社会性?もあまりなく、
私的でポエティックな印象が強い。
だからか、そのタイムラインをスクロールするだけで、
自分がフォローしている人とつながっているような感覚になれ、
ぼくに向けられた投稿ではないのにもかかわらず、
今日も元気だよ。こんなすてきな夕日を見たの!
ってな絵手紙をもらったような親密感をおぼえてしまうのです。
あ。今書いていて気がつきましたが、
ぼくがそのような温度感をインスタから受けとっている人だからこそ、
その表裏として、しがらみめいたものを感じているのでしょうね、勝手に。
さてさて、そんな感性の私が最近気に入っているインスタの受け止め方をご紹介しますと、
それは、自分のタイムラインの人々をわが分身のように捉えることなのであります。
彼らは自分の代わりに、
イタリアの、奄美大島の、自由が丘の、台北の、ニューヨークの、ある瞬間のある感情を表現してくれている。
藤子不二雄先生の「パーマン」はコピーロボットと額をあわせるだけでその記憶が取り込めるように、
自分のために挙げられた投稿は、自分の意識を構築する一部としてインストールすることができる。
そのような視点で眺めると、
ああ、うらやましい。という気分はしぼみ、
すてきなリポートをありがとう!というほんのり優雅な気持ちになれるのでした。
なんだか人に言うまでもないようなことをつらつらと書いてしまいましたが、
ただ、インスタって難しい。と思う時代遅れな人間もいるんですよ! と言いたかった。
それから、みなさんはどのように付き合ってます? と聞きたかった。
そして、話しかけたかったは南野陽子!
以上、くだらぬお喋りにお付き合いくださり本日も誠にありがとうございました。
ニュー男子 拝