今朝は6時半に目覚めた瞬間に、滝へ行こう! と思い浮かんだので行ってきました。
車で、窓を開けて、松田聖子を聞きながら行ってきました私です。
しかし、これは簡単にみえて簡単ではない。
起きてから出発までのものの10分程度の間に、
すきあらば、といった風に滝へ行かない理由が瞬間的に何度も何度も襲ってきたからであります。
たとえばこれはどう? とアトリエにて絵を描く提案にはじまり、
高尾山へ登るのも面白そうだけど?
ちょっとネットサーフィンしてからでも遅くないんじゃない?
朝の排便はデトックスに最適らしいからまずはトイレでひときばりしたって損はないはず。
それらのすばらしいアイディアは、どれもセカンド、サードオピニオンであり、
もちろんそうした声に従ったとしてもきっと幸福感を得られただろうとは思う。
けれど今現在、心底ハッピーなのは、いの一番にふってきたあの滝へ行ったからに間違えありません。
滝へ行ったところでなにがあったかというと、なにもありませんでした。
ただ、そこへつづく道を風を受けながら車に運ばれ、
滝の音がおおきくなりゆく土道をふみしめ進み、
ご褒美のようにあらわれたダイナミックな水の動きにみとれただけ。
なにひとつ、よいことはありませんでした。
でも、したいことをした満足感が全身に行き渡り、
ただ生きていることだけで充分なのだなあ、と瞬間的悟りに達するひとときがありました。
生まれも育ちもなにもかもが違う私たちは、もちろんのことみな等しく唯一無二の存在。
それは言いかえれば、誰もがみな誰とも真に分かり合えることはない孤独を生きる宿命にあるのかもしれません。
孤独を恐れ、避けようとすると、
本当は今これがしたい、これを食べたい、これが欲しい、といった望みを叶えるべきか
誰かやなにかに尋ねることが習慣化してしまう。
けれど尋ね尋ねても、聞くものと答えるものは別の生命体ゆえ、
私がもっとも幸せになれる”正解”などは、はたして他人にはわからないのである。
ということで、ぼくは何が待っているのか知らず、
地球に排気ガスを撒き散らしながら数十分車を走らせ、滝を訪れたのでありました。
さて、ありふれた結論が導き出されることをみなさんは想像しているかもしれませんが、
予想を裏切らず今日も今日とておなじみのことを最後に本日の雑記をしめくくりますと。
自分を愛するということは、
自分の中にわきあがる理由も根拠もとぼしいなにかに対し、
はい、わかったよ。あなたがそれを望むならば叶えてあげます。
と、寛大な態度を示すことそして。
それを実行した自分を、よくできた、よくやった、と溺愛的に誉めてあげることなのだと思います。
その瞬間のその人にしか生まれない貴重だけれど不可解な夢を、
一銭の得にもならなくとも時間やお金やエネルギーを注ぎ実行するなんて、
もう愛以外のなにものでもないでしょう!
そんな風に劇的に自分の「ふと思う」を捉え、行動してみると、ふつふつと静かなる至福感がやってくるのだ。
滝ハイの今のぼくはそんなことを真剣に考えるのであります。
本日も最後までお読みいただき誠にありがとうございました!
ニュー男子 拝
本日は、いつまでも蒼すぎる中年男子の悶々にお付き合いくださり、誠に誠にありがとうございました!