片ひざを立てながら、
なんと朝は6時8分のキッチンにて、
タンクトップと長ズボンというアンバランスに思える格好で、
なにも浮かんでいないながら書きだしている終戦記念日です。
終戦記念日といえば、先日とある方とお茶をしていたときに、
靖国神社に参拝に行ったことはあるか、と聞かれ、
あるようなないような、たぶんないのだろうな、と思い、
そのようなゴニョゴニョした返事をしたら、
一度行ってみては、と薦められた。
こんなことを堂々と書くことは怖いのですが、
ぼくは戦争というものに無関心でいたい。
なぜかというと、ぼくが学んだというか知ったことでいうと、
この世界というのは、関心をよせるとそこにそれが現れる仕組みになっているらしいからです。
それは量子物理学?(ご興味ある方は調べてみて)の世界でも言われていることらしく、
スピリチュアル一辺倒の世界観ではないようで、
だからといって、それが真実。ということもぼくには言い切れませんが、
個人的にはその世界観が気に入り採用している私です。
ということで、
なんとなく世間的には、無関心とは最低の態度である。と言われていそうにも感じるし、
関心をもち、調べ、知識を得てこそ一人前だ、という風に思う気持ちもあるので、
ずっと隠してきたのですが、
ぼくは戦争というものに関心がありません。
自分だけが助かればよいのか?そのように聞かれたら即答はできませんが、
質問と違う答えになっているぞ、といった指摘を覚悟して書きますと、
ぼくは、世界平和のスタート地点は自分の平和だと思っていて。
もしも「世界に平和が訪れました!」と、
国単位の戦争、紛争がない時代がやってきたとしても、
ともに暮らす恋人と口もききたくないほどの険悪感の中、
仏頂面で黙々と食事をするような毎日だとしたら、
そのときのぼくは「世界平和だって?笑わせるな。平和がなんだっていうんだ」などと腐し、
待ち望んだはずの平和を体感することはできない気がします。
じっさいはわかりませんが、そんな風に想像してみるに、
とにもかくにもまずは自分が昨日でも明日でもなく今日を平和にすごすこと、
穏やかにあることが重要なのではないかと思うのです。
自分がそのようであれば、例えば、
コンビニでの買い物というどこまでも淡白になれそうな瞬間にも、
お店の人とレジでのやりとりに笑顔でのぞむことや、ありがとう、と口にすること、
お金を丁寧に渡すこと、お釣りを丁寧に受けとることなどといった些細な言動にも
平和なバイブレーションのようなものを放つことができそうに思います。
というか、放つ意識がなくとも自然と放たれてしまうものかもしれません。
するとお店の人は、
ピースなお客と接したことで次のお客への対応がほんの少し変わるかもしれず、
それを受けたお客がほんのり明るくなって店をでていき、
その後に接した誰かにピースな空気を伝染させていくかもしれない。
かもしれない、かもしれない、で恐縮なのですが、
すくなくともぼくには、世界はそのような場所なのではないかと思えているのですよね。
なんとも長々とした言い訳めいた話になってしまいましたが、
ぼくは、ぼくなりの平和運動として、
本日もわたしを、機嫌良く、気分良くさせることに注力して過ごそうと思うのであります。ピース!
以上、超個人的なブツブツを最後までお読みいただき誠にありがとうございました。
ニュー男子 拝