まず、そこが暗いということが自分の居心地に大きく影響を与えていることを思う。
ギャラリーJは、地下のお店で、まるで洞窟のような細長いつくり。
そうした空間に身を置くと、自動的に内観モードになってしまう。
さらに友だちはおらず、気安くお店の人に話しかけていいかも迷い、
初日のオープンあたりはそうとうに落ち着かなかったことが記憶に強い。
けれど、とてもラッキーなことに
その6月1日に、ぼくと同じように初日を迎えたアルバイトの女性がいて、
彼女はさして緊張している風でもなく、
「あの、作品を写真に撮ってもいいですか? すごく素敵だから」などと声をかけてくれ、
「えー、うれしい! もちろんです、撮ってください」などと喋っていたら緊張がゆるんでいった。
さらに、同じくアルバイトの男性が、
ニコニコ顔、ハートひらいてます! って雰囲気で話しかけてくれ、
彼が歌をやっていることをはじめ、ちょっとした互いの身の上話もでき、
緊張状態がさらにゆるむのはもちろん、だんだんと楽しい気持ちにもなっていった。
振り返ってみるとぼくは、まずその場の空気を読もうとする癖があるのだと思う。
たとえば、はじめましての人が撮影スタジオに集合しひとつのミッションをこなす撮影現場でも
ぼくは無意識、自然に空気を読むことを行っている気がする。
空気を読むというと、
顔色を伺う的なちょっとネガティブなイメージもあるし、もちろんその要素も強いのですが、
ポジティブにその行動をとらえると、
ぼくはその場と自分のテンション、ムードみたいなものをチューニングしているのかもしれない。
また自分をその場に合わせるというと、
自分がない、自分を表現するのが怖い、というようなどこか残念なことのように思う私もいますが、
どこでもいつでも「私はこう!」と強く打ち出すことがぼくにはそう心地よくなく、
いあわせた人たちがリラックスしていることのほうが心地よいのだから、いたしかたない。
矛盾しているかもしれないけれどそれこそが「私はこう」という在り方なのかもしれません。
その日は、NYCからやってきたトリオが演者。
英語がぜんぜん話せないぼくは、彼らのひとりが絵に関心を寄せ、質問をしてくれたけれど
単語レベルでも返答できず自己嫌悪。
ぼくのためにいるわけではない通訳の女性に図々しくHelp me!!
今回の展示では英語と日本語で1つの作品に2つの名前をつけたのですが、
そのタイトルは英語と日本語のズレに通訳女性が着目をしてくれ、
面白がってくれたのがとてもうれしかった。そうなの、そうなの、ズレてるの!
さて、初日は、まだまだいろいろありまして。
なんと、絵が売れたのでありました。
購入してくれたのは、都内に住むご夫婦で、
不思議なのか不思議じゃないのかはどちらでもいいことだけど、
ご夫婦のどちらもが、しかし異なる絵を欲しいと思ってくれたのでした。
ちなみに奥さんはキラキラと明るい色の絵を、
旦那さんはエネルギーの渦みたいな強い絵に惹かれたそうで、
夫婦間の話し合い? の結果、旦那さんの気に入った絵が彼らのもとへ行くこととなった。
(驚くことにその絵を飾る場所さえ既に旦那さんの中では決まっていた)
その後、ご夫婦から「お兄さんも一緒に飲みませんか?」と誘われ、
お酒をごちそうになり、そこではおもに奥さんとトーク。
奥さんは、とてもスピリチュアルな印象の人で、
お告げのような静かなトーンで、ぼくについていろいろなことを言葉にしてくれた。
とくに印象に残ったのは、
ご夫婦がアメリカはスピリチュアルスポット・セドナへ旅行してきたばかりで、
セドナは、手垢のついていないまっさらな自分に会える場所だ、というセドナ考。
そして、あなたみたいな絵を描いている人はぜひセドナへ行ったらいい!
そこへ行けば、絵がまた次の次元? のものへと変容するにちがいない、という予見。
個展ははじまったばかりでしたが、
当然ながら絵はすべて過去に描かれたものであり、
展示をし終えた瞬間に、自分の中で何かが「完了した」という感覚があったので、
そのお告げに、まだ次がある、次へいける! と心が躍ったのでありました。
奥さんにはさらに、絵のタイトルをきっかけに言葉についても聞かれ、
おおまかに絵を描くに至る経緯を話したら、
絵は感じる人には感じるけど、絵になにも感じられない人もいるだろうから、
自分の中ではかつての表現方法なのかもしれないけれど、文章も発表したらいいと思う。
などというメッセージももくれた。
つい先ほどまでは見知らぬ人だった彼女から、
そうした自分が気にかかっていることを伝えられるのだから、
出会いというのは本当に不思議!
そんなこんな超濃厚なday1は、
興奮しながら帰り電車に揺られ、倒れこむように眠りについたのでありました。
ニュー男子 拝