わたし、今年本厄でして。
出かけていくのが億劫という怠け心と
数千円を形のないものに投じることを
ためらうケチ心のようなものに心まどわされ
年が明けてもグズグズと厄払いへ行くか否かを迷っていましたが
ようやく先日行ってまいりました。
儀式が終わり神主さんが
本厄の心構えとして話してくれたことによると
今年は特に「無理をしすぎないで」とのこと。
はい! と答えたものの、さて無理とはなんだ? という話。
無理がなにかがわからないからこそ
無理がたたり病にふしたりするわけで。
そうして初めて、
ああ、自分は無理をしていたんだなあ、などと気がついたりするわけで。
本厄の時というのはもしかすると
それまでの人生の無理の蓄積が噴出しやすい時期ということなのかもしれない。
と思い至ったものの、だから無理ってなんなんですか?
そんなことを自分にもやもやと問いかけたところ
ぼくの頭なのか心なのかはその答えを「自分らしく生きないこと」と出した。
たとえば無理して笑っているという状態、状況を
本当は笑いたくないけれど笑う自分。とすると、
”本当は笑いたくない”が本音で、
”笑いたくないけど笑ったほうがいい”が建前。
本音は”本音”というくらいだから自分の本当の声であり、
「常識的に考えれば……」「ふつうは……」「一般的には……」
というようなもっともらしい声が、
これまでの環境から”そのようにふるまうべき”
と思い込んだ「建前」なのかもしれません。
そんな風に、
本当は違うことを思い感じているけれど
本心に従いふるまうと波風が立ちそうで、怖いからそうしない。
自分を抑えて周囲に合わせることでやりすごそう。
という姿勢、生き方は、
本音と建前で板挟みになり建前を優先させている状態であり
自己分裂しているということなのかもしれませんよね。
本音と建前。
こうありたい、と、こうあらねばならぬ。
自らのそうした極と極を知ろうと努め
ありたい自分であるように心がけ生きることが
無理をしすぎない、自分らしい人生の道というものなのかもしれません。
ということで、本厄イヤーは
本音的に生きることを日々瞬間瞬間の指針としようと思うのでありました。
よかったらみなさんも、shall we dance??(古っ)
本日もご清聴ありがとうございました!
ニュー男子 拝