歌の世界の中に、
「あなたの私」とか「私のあなた」
などというフレーズを目にすると、
ぼくは、そんなわけがない。
そんな風に誰かが誰かに所有されることなどない。
と、そうした言葉を「束縛」的な意味でとらえ、
否定をしたい気持ちがわいていました。
けれどもしかすると、
それらが表現するところは
そんなちっぽけなことではないのかも。
と今日のぼくは気がついたので、これを書き始めた次第。
先日、
久しぶりの友人たちでランチをする運びになり
ぼくは、クレヨンだのペンだの紙だのという
お絵描きセットを持参し参加したのですが。
そうして、お茶タイムのときに
集まった面々の(ぼくをのぞく計3名の男子)
似顔絵のようなものを描かせてもらいました。
「似顔絵のような」と書いたのは、
似せる、ということが主眼ではなく、
なんといいましょうか、
その人の顔というのを出発点にして
色や線で遊ぶ。といったら、格好良すぎかもですが
でも、まあ、そんなことでして。
それはさておき、
ぼくが3人を描いたところ、
お返しにぼくも野村を描くよ、と展開し、
友人たちはそれぞれ好きな画材を使い
ぼくの顔を描いてくれたのですが、
これが、見事に三者三様。
描きあがった絵を見せてもらいながら
この色ってどういう意味?
これは何をあらわしているの? など、
作者が受けたインスピレーションのようなものを
聞きだしたりして、非常に楽しいひとときでありました。
そんな、無邪気な中年の集いの結晶的な絵を
帰宅しあらためて眺め、思いましたのは。
野村浩平はこういう人。
などという絶対的、固定的なイメージなどありえないのだなあ、と。
人の数だけ「野村像」はあり、
野村浩平という人の存在や意味、
彼(野村)のもたらす印象やインパクトは
対峙した人がそれぞれに抱く唯一無二のもの。
ということはつまり、冒頭の話に戻りますと、
「わたしのあなた」とは、
「わたしの(中に存在する)あなた(がもたらすイメージ)」
ということを言い表しているのかもしれない! と、気がついたのであります。
さて。
ぼくのそんな妄想はひとまず、
似顔絵のようなものを描き合うというのは
童心にかえり楽しみながら、
大人の私に発見をももたらす可能性を秘めたすごい遊びかもしれません。
気軽にできますし、
ご興味をもった方は、ぜひ一度やってみてほしい! と思います。
以上、本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
ニュー男子 拝