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【ニュー男子】ぼくの宇多田ヒカル

 

 

7月は、なんだか「はじめまして」の出会いが多い月となっている今年です。 それは、先月の10日間、外に向け、世界に向け「ぼくの花」などという作品展をひらいた、 その外向きのエネルギーが引き金となり”ニューなHello!!” へと繋がった結果なのかもしれない、と想像。

初対面の人と”天気の話”以上の時間を過ごすとき、 ぼくの場合、どうしても自分が取り組んでいる現状について話したい人でありまして。 それはすなわち「自己流の絵を描き発表することで社会と関わる」という夢みたいなことに挑戦中なのです私。 といったことを言いたくなるということなのですが、 そこへの経緯として、さらに”絵を描くまでの話”も手短かにでもしたいんであります。

ぼくの生い立ちというか、若かりし頃の我が内的世界といえば全身自己嫌悪カラーだったもので、 当時の名残りなのかいまだに、誰かへ向け自分の話をする際には、 ”こんな身の上話を聞かせてしまってすみません”ってな申し訳なさがよぎり、 耳を傾けている人の目や雰囲気をどうしても気にしてしまい”マスト手短か”を心の合言葉にしてしまう。 (実際は「アンタは話が長い」と、よくよく言われるので人様の体感としてはまるで手短かじゃないのでしょうが……)

けれど、だからこそ、このような文章世界ではこの場に誰の目もないため、 思う存分に書くことへの後ろめたさのようなものがなく、 今日もこうして前置きだけでずいぶん言葉を連ねてしまうことはさておき。

最近、人はみなオリジナルの人生を生まれてから死ぬまでおくる孤独なランナーながら、 一方に、ごく個人的な経験や感情や考えなどは、 それが個人的であるほど、誰かのごく個人的な深層と共鳴することはありそう。というようなことを時々思っていて。

先日、宇多田ヒカルのレコーディングに密着。というテレビ番組を見て、 たいへんたいへん面白く感動し、宇多田ヒカルさんという人に初めて共感と好感を抱くこととなったのですが。 番組を見て、自分解釈でのいちばんの収穫は、先ほど書いた「個人の深層の表現は誰かの深層に響く」というものへの手応えでした。

あくまでも自分のフィルター越しの鑑賞、感想なので本人の真意はわかりませんが、 ぼくの宇多田さんは、「自分の深層に音楽というツールを使いつながり」、 「そこに広がる感覚世界を音楽という”形”に落とし込むこと」で、自分を、生きている意味を求め、 生きている実感や生きてゆく活力のようなものを得ている。 そして、そのようにして紡ぎ出された音と言葉、喉をふるわせて発せられる身体表現などで生み出された「作品」が、 結果的に、社会から、おびただしい数の個人から求められている。

受けとり手の私たちは、彼女が全身全霊で向き合ったその世界に、感覚を通して瞬時にアクセスすることとなり、 忘れていた記憶や、(もしかしたら)まだ見ぬ世界への懐かしい憧れなどを体感することができる。 そういう仕組みなのかもしれないと思った。

というか表現というものはそもそも、 その深度はさまざまとして、それが意味するもの、価値としては、 そうした目に見えないどこか(無意識、集合意識、五感外世界)への通路なのかもしれぬ。

ということで今日は、ぼくの、ごく個人的な”創作したい人生という私”について書こうと思ったのですが、 ミイラ取りがミイラになるが如く、前置きに本題がのみこまれてしまいましたので、 マイストーリーはまたの機会にしますね……!

本日も、暑さを助長しそうなウダウダトークにお付き合いくださり、誠に誠にありがとうございました!
ニュー男子 拝

 

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