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NIKE的余生

 

 

先日、わが一家での新年会のことをここに書いたのですが、読んでいただけましたでしょうか。 もしお時間ありましたら、それらにお目通しいただければうれしいです。でも、読まなくてもいいです。

ええと、そこには、古希寸前の父が定年後に人が変わったように子供返りし、 家族の集まりで酒を飲み始めると、おしゃべりが止まらない。ってなことを綴っていまして。 父のそのローティーン的コミュニケーションのあり方は、 ひょっとすると定年を迎えた団塊世代の傾向なのかも、と思ったわけでございます。 そして、それを「問題」と捉えてしまったその夜のぼくは、 以後の数日間、父のコミュニケーションの変容になにが良いのだろうかなどと、余計なお世話、ナンセンスな方向に時間を費やしました。

ぼくの偏見による目下の父のおしゃべりは、情報の伝達がメインのものに感じます。 「こういう映画を見た。こんなことをした」 それはそれでまったく問題はないのですが、 彼のことが好きだから、ふんふん、と聞くことができるものの、大変失礼ながら右から左へ流れていく度が高い。

これは個人の好みでしょうが、たとえばそこに父が感じたことが加味されたならば、 話の面白味が増し、深みや広がりが生じるのではないか? と思う。

げんに父が、「会社という組織を離れると、自分の話を聞いてくれる者がいない」という心情吐露的な発言をすると、 会話にひとつの方向性がもたらされ、そこに集う他者が口をはさめる余地が生まれ、場が活性化したように感じた。

社会での社会人としての会話の多くは、情報伝達と思考のみでも成り立つような印象があって。 成立するのだからそれでもいいのだろうし、それが社会人の会話と言われればそれまでだけど、ぼくにはそれが物足りない。 言ってみればあたたかみがなく、自分とその人が会話をしている必要性みたいなものが感じられにくい。 一方そこに”感じた”ことのシェアがあると、グっと人間味や親近感をおぼえ、なんというかハートで話せた気持ちになれる。

ぼくの単なる想像ですが、 ”感じる”という機能は人間の根幹的なもので、 老若男女が共通言語的に扱える会話の糸口なのではなかろうか。

理論的な、これはああだ、ああだからこうだ、という話しだと、 知識や経験値などが見えない壁となり、得意な人の独断場となることもある。 その会話は、キャッチボールというよりは、投げ手と受け手と立場を異にする”投球的”とも言える。

父がこれまで求め求められ、おこなってきたのが投球的会話なのだとすると、 離職後の人生で彼を満たす会話とは、キャッチボール的それかも、と勝手に結論。

会話に限らず、もしかすると第二の人生とは、 頭から五感へイニシアチブを譲る時代なのかもしれない。 ブルースリー的、ナイキ的「Don`t think Feel!」なるその生き方はまさに子供のそれで、 「子供と老人はニアー」ってな印象を受けることがある要因は、そこかもしれません。

って、だからなんだな本日の雑記になってしまいましたが、 父のおしゃべりから思い巡らせたことにはまだつづきがありますので、 もうしばし、このテーマにお付き合いいただけましたらこれ幸い。 ひきつづき、よろしくお願いいたします! 
ニュー男子 拝

 

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