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あそびを与える

 

 

きのうは遊んだ。といっても、特別なにかをしたわけではなくて、 いってみるならば、なにもしないことを自分に許した。

あそびを、英語の「PLAY」とすると、 それはなにかを「する」ということになるのかもしれないけれど、 ”なにもしないをする”とは、矛盾ながら究極の「する」なのではないかと思う。

車の運転を教わったときだったかに、車のハンドルには”あそび”があると知り、 その意味するところは余白であることに面白さを感じて印象深い。

日常生活には、仕事だったり家事だったり娯楽だったり睡眠や風呂だったり、 そのほとんどには意味があって、行為としての目的のようなものがある気がします。 そのように捉えると、意識的なブランクをもうけることは、 たいへん稀少でとても大切なことかもしれません。

昨日のわが遊びとはちなみに、 目的をもって動く友人に同行し、道中に思い浮かぶことをただただ話し、 彼女の応えの刺激を受け生まれる考えや思いなどをまた話し、 とにもかくにも喋る、それだけのことでした。

友人が、ぼくに諸用事に付き合ってもらえたらうれしいけれど、 いっしょにいる間にほかのことに魅力を感じたときは、そちらを優先して。 と、あらかじめ伝えてくれたこともあり、 客観的には彼女に付き合っているということかもしれませんが、 主観的には自分が彼女に付き合ってもらっているようでもあり、終日、心に自由があった。

しないをする、と言いながら、おしゃべりしているのだから、 ”しない”をできていないともいえるけれど、 そこにひとつの”しなくては”もなかった時空は、やっぱりぼくには余白。遊び。

って。いったい何の話? と、いぶかしんでる方もいるかもですね。 なんといいますか、なにをすることもしないことも、 それと向き合う自分の中に「自分がしたくてこれをしている」という主体的な選択意識があれば、 そこには自由があり、それはすべて遊びとなるのかもしれない。 そのようなことを感じたのであります。

これが何曜日にアップされるのか、 さらには、いつあなたのお目にふれるのか想像もつきませんが、 そのような主体的選択観点をたずさえ、おおいに遊ぶ週末になさってみたら、 いつも以上の深いリフレッシュがもたらされるのかもしれませんよね。

以上、花金は午後より遊び気分でぶつぶつ言わせていただきました。 本日も最後までご清聴いただき、誠にありがとうございました!
ニュー男子 拝

 

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