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蒼すぎる午後から

 

 

感覚的にはもう秋に踏み込んでいるのですが、まだ暑いですね。 短パンにタンクトップという裸の大将的スタイルでキーボードを叩く今です。

展示会を終えると毎回そうなってしまうのですが、だるい。 盛り上がって飲みすぎた翌日の二日酔いがなかなか抜けないような自業自得感といいましょうか、 いったい昨夜はなにがそんなに楽しかったのか、信じられない。 というようなローテンションな心身に、 なぜか「愛」という言葉が今日は浮かんできます。

スピリチュアル本を開けば、 そこに愛という言葉が書かれていないものはないというくらいに、 その界隈では重要な言葉、概念なので、よくよく愛の意味のようなものを目にしてきたものの、 やっぱり、さっぱりわからない。

というか実は、これは愛に限ったことではなく、 概念というか感覚を言葉にそのままトレースすることは不可能なのかもしれない。 言葉で言い表せてしまえないからこそ尊いのかもしれません。

でも、ぼくはこう見えて(?)、頭でっかちというか左脳でっかち人間で、 言葉にできないかもしれないものも、言葉として、頭で理解したいという思いが強いのですね。

無理なことをやろうと試みる時間を無意味だとすると、 ぼくは人生の長い時間を無意味なことに費やしてきている男子であります。

前置きの域におさまらないくらいの長い前置きになりましたが、 さっきたどりついた今日現在の「愛」について書いてみようと思います。

愛の反対は憎しみとか恐れとか無関心とかよく聞くけれど、 もしかすると、憎しみも恐れも無関心もアリとしてしまう存在というか、 あらゆる感情や状態を包括するものが愛なのではなかろうか。

罪悪感という概念が、人類最大の負の発明だ。と聞くことがありますが、 罪悪感が生まれる背景を考えると、たとえば誰かや何かに対して、 憎しみや、恐れや、無関心な己を知ったときに、 自分はなんて冷酷なんだろう、なんて汚れた人間なのだろう、と、 罪の意識をぼくは抱くことがよくあって。

むしろほとんどすべてのことに関して、 すばらしいね、よかったね、すごいね、と思う心の片隅に、 真逆の気持ちが発生していたりします。 そうして、つねに自分は分裂し、 醜い発想をする自分を表現しないことで、 誰に対しても嘘をついているように思え、罪悪感をおぼえるのです。

けれど、もしかすると、 そのように真逆のものが同時に生まれることは、 光と影で成り立つこの世界では当然のことなのかもしれません。 光とは影があるからこそそれが光となるわけで、 愛とは愛ではないものがあるからこそ愛になるのだという。

ミーちゃんとケーちゃんでピンクレディーになるように、 愛と愛じゃないものがあわさって愛になるのかもしれない。

って、まったく抽象的なことを思いつきで書いてしまってすみません!

ただ、自己嫌悪につながる受け入れがたい感情、思考が存在することに、 罪悪感をおぼえる必要などないのではないか。 なぜならあたたかい気持ちが生まれるときには同時に、 真逆の気持ちが生まれることがこの世の法則なのかもしれないのだから。 ということがぼくのどこかをグルグルしていて、 それを書かずに別のことを書くことが不誠実に思えたので、 無知を覚悟で、ここに吐露させていただきました。

みなさんの貴重なお時間をちょうだいして、 なんだかぼくの悩みを聞いてもらっちゃったみたいで、恐縮です。
ニュー男子 拝

 

本日は、いつまでも蒼すぎる中年男子の悶々にお付き合いくださり、誠に誠にありがとうございました!

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