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手におえない彼女

 

 

手におえることと手におえないことってあるのだなあ、と思う今日です。

ここのところ、展示にむけて友人が宿泊中で、 かつパートナーのカレが帰省中ということもあり、 いつもの生活ができないことをストレスに感じる自分を知り、そんなことを思っている私。

いつもの生活とは何かというと、 お昼をトーストとコーヒーでゆっくりとり、 洗濯やら猫のトイレなどの家事をカレと分担して行い、 手わけ作業でうまれた時間をつかってたとえばこの原稿を書いたりするわけですが。 当然でしょうがカレと友人では、ぼくとのコンビネーション具合がまるで違うのですよね。

ツーといえばカー。 という以前に、ツーもいわなくてもカーしてくれるのがカレで。 友人とは同棲生活をおくったことはないので、 今これをして欲しい、これはこうして欲しい、ということがあったとしたら、 それを口に出してお願いをする必要がでてきます。

さっきも、洗濯ものを取り込んで欲しい、とお願いしたら、 友人は、たくさんの洗濯物を部分的に取り込み、 取り込んだものを畳んでくれていて。 そして「畳み方がわからないから、自分のやり方でやった」というようなことを言った。

その行為は、ものすごくありがたいのは言うまでもありませんが、 とはいえ、わが家の畳み方というのはやはりあって、 彼女のそれと異なるものは再度畳みたい性分。

ね。なんかわかりますか? ぼくの言いたいことが。 ようするに、自分の城であるわが家のさまざまは、 ぼくのやり方を「正しい」として、その正しさに固執してしまうのですよ。 そうして、彼女が自分の願うように動いてくれないことにもどかしさをおぼえる。

このニュー男子を彼女は愛読してくれているので、 おそらくこの文章をいま読んでいることでしょうが、 もちろん、直接言えないことを文章化してぶちまけているわけじゃないですからね。

なんといいましょうか、 自分と感覚が違う人(それは自分以外すべての人)を、 自分の思うままに動かしたい、動くべきだ、という支配欲、コントロール欲というものこそが、 日々、瞬間瞬間にストレスを生じさせる源なのかもしれない、ということです。

また、そのような思考回路は、言い換えてみるとある意味では”正義感”とも言え、 一見すると「正義感が強い」というのは、すばらしいようにも思えますが、 正しさなどというものはもしかすると幻想でしかなく、 正義感をふりかざす生き方は、たいへん身勝手、横暴なのかもしれません。

8月22日からの展示会は「浄化」をテーマに行うのですが。 展示前のこのイレギュラーな生活に、 なによりもまず展示者である私が浄化の恩恵を受けているようです。

自分の思い込み、自分を不快にさせる感情や思考回路が、 水が沸騰するように、浄化の炎で浮上し、 ああ、自分って器が小さいなあ、 自分がイメージする自分は絵に描いた餅だったなあ、 でも、これが等身大のぼくだったのだなあ。 そんな風にして、自分がますます自分になっていけているのを感じています。

手におえる自分の言動は自分が責任をもって自由にする。 手に負えない他人や世界のことは、ただただ、それが起こった、と淡々と見つめる。

個人的には、自他に分け隔てをもたない一体感が目指すところなのですが、 そうした境地にたどりつくにはまず、自分に在るさまざまな自分との隔たりをなくす必要があるのだろう。 今日現在のぼくは、そんなことを思うのでありました。

以上、本日も超個人的な世界観にお付き合いいただき誠にありがとうございました! (あ。インスタグラムについて書くと予告していたのを忘れてた!!)
ニュー男子 拝

 

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