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すてきな日本語

 

 

この間、 昼はちいさな雑貨屋、週末の夜はバーとなるお店にて 韓国人男子たちとふれあいました。

彼らはゲイなのですが、それはべつにいいのですが 日本人は、言いたいことをストレートに言わずなにを考えているかがわからない。 だから、恋人として付き合うことは考えられない、と言っていて。

韓国人が帰っていき、残された日本人たちで、 置き土産のその言葉をテーマにしばしディスカッション。

日本人ってたしかにそういうところがあるかもしれないね。 YES、NOの文化じゃなくて、曖昧で優柔不断。 世界的にみても、かなり遅れているのかもしれない。

たしかに、そのように見れば、 ほんとうにだらしないというか、残念な民族だな、と思う。 が、コミュニケーションの基準を英語的なものにおけばそうなるけれど はたしてそれが正しいのだろうか、と、ぼくは考えてしまうのであります。 だって、日本人だし、日本語というものにとても愛着があるから。

日本語は、 なきにしもあらず、とか、行きたい気もする、とか、 そうともいいきれない、とか、 はい、と、いいえの間に、無数に言葉があるのだと思います。 さらにシチュエーションに応じて、 同じ言葉がYESにもNOにもなるという不思議な言葉だとも思う。

たとえばYESが白、NOが黒だとすると、 日本語的コミュニケーションとは、 白から黒までのその濃淡を感覚的に身につけないと 扱うことがむつかしいような気がします。

それは、ある種とてもややこしいしまどろっこしいけれど 限りなく白に近い黒的気分を言葉で表現でき、 たいへん豊かとも言えなくはないでしょうか?

そして、言葉があるからこそ、 感じていることの機微を脳内で言語化することができ、 言語化することで、感じたことを認識できるのだとすると、 言葉の濃淡が細かいほど、 感性も細やかに、繊細になれるはず(繊細が良いかはひとまず)。

だから日本語こそすぐれている。とはいえませんが、 せっかく豊かな日本語を扱えるのだから(これを読めている人は) その曖昧さを、誇りたいじゃありませんか!

なぜなら、 母国語を、母国のコミュニケーションを卑下しながら生きるより、 誇って生きるほうが、 自分に対しての誇りのようなものも育まれると思うから。

以上、自分勝手な考察でありますが、 「誇る」という視点で日本語を(もしくは母国語を)捉えてみることは 案外と大事なことなのではないかと思うのですがいかがでしょう?
ニュー男子 拝

 

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