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ドリカムアレルギーとは?歌詞やメロディーに拒絶反応!【マツコの知らない世界】

ドリカムアレルギーこの言葉がネット上を騒がせた発端は、2017年4月18日に放送された『マツコの知らない世界』(TBS系)内において、国民的人気アーティスト「DREAMS COME TRUE」(通称ドリカム)の中村正人氏の発言からである。なぜ日本を代表するアーティストにアレルギーがあるのか?

「ドリカムアレルギー」を深く分析して導かれたものとは?

1.ドリカムアレルギーとは?

マツコの知らない世界で語られたドリカムアレルギー

 

早い話が、ドリカムの楽曲にあまりいい印象を持たない、拒否反応を起こす、それが「ドリカムアレルギー」ということである。

それを受け、司会のマツコ・デラックス氏がこの「ドリカムアレルギー」を実に上手く補足していて、「嫌いではないけど」と前置きした上で、
「何がアレルギーの原因かって考えると、歌詞の世界観ですね。私からすると完全な夢を見させられている感じ」とし、
(ちなみに作詞はヴォーカルである吉田美和氏が担当)
続けて、「悲しくなってくるんですよ、逆に。どうあがいてもあの歌詞の世界には行けないそういう人間からすると。完全な夢を聞かされている、希望ではなくて――」と締めている。

それに対し、ネット上では、

・「歌詞の世界が眩しすぎる。直視できない」
・「説教臭い。押しつけ感が凄い」
・「前向きとか頑張れとか希望とか夢とかを歌っているの自体が苦手」
・「非現実的の世界すぎて、まるで胸に届かない」

と同意する声が多数みられる結果となった。

確かに、「DREAMS COME TRUE(夢は叶う)」のバンド名の通りのイメージで、
ポジティブ・前向きであり続ければ、夢、そして恋は叶う――
という印象があるのは拭いきれない。
それが押しつけられているという世間の捉え方。
実際はそんなに甘くない、少なくとも私の人生はドリカムワールドとまるで違う!というアレルギー反応を起こす人の解釈。

「なるほど」とうなずく一方で、まだ「ドリカムアレルギー」について語り尽くせていないのではないか?「ドリカムアレルギー」とはもっと深刻なものではないのか?そしてこのアレルギー症状はドリカムだけには限らないのではないか?というのがここでのテーマである。
加えて、アレルギーの本質、原因、最終的な対策を『美容男子』目線で解析していきたいと考えている。

 

 

2.歌詞の世界においての『僕』『私』の選択の重要性

コードも歌詞もほぼ出尽くしているなかで、新しいものを生み出さなくてはならない

 

マツコ・デラックス氏の発言の通り、楽曲において「歌詞」を重要視する人は多い。
そのアーティストの印象を決め、そしてその曲の好き嫌いをはっきりとさせる。
現に“何度でも繰り返し聴いてしまう曲”においては、「歌詞は嫌いだけどメロディは好き」といったものは少なく、歌詞・曲ともにどちらも好きと答える人が多いはずだ。

ということで、楽曲の価値の大半を占めると言っても過言ではない歌詞の内容という話になるのだが、実は先ず考えなくてはいけないことがある。
それは、誰目線での歌詞(物語)なのか?だ。
言い方を別なものにするのならば、「伝え方」である。

歌詞は主に、『僕』『私』の一人称で出来上がっている。
昔は、あの「これぞ男!」という印象の長渕剛氏でさえ女性目線の歌詞を作り、唄っていたりしていたが、今現在は基本的に、歌詞を提供ではなく自分自身で唄うとしたら、

男性→『僕』のみ

女性→『僕』と『私』

で成り立っている。
頭に流れるお気に入りの曲に耳を傾ければお分かりいただけるだろう。
つまり、男性アーティストは目線を選べず、女性アーティストに関して言えば、『僕』と『私』、すなわち『男性目線』『女性目線』と使い分けることができるのである。

 

★女性アーティストは選べる立場にいる

 

女性アーティストにとってこの部分は大きな利点と言えるだろう。
ひとつに、視点を変えることによって歌詞のネタ切れ防止に繋がる。
「男性の気持ちになった歌詞」と「自分の気持ちを表現した歌詞」のふたつあれば、詩の世界のストーリーは大きく、そして拡げることができる。
そしてもうひとつの利点として、歌詞を『僕』に変えるだけで、自分(作詞家)と距離を置けることが挙げられる。

例えそれがしんみりとしたバラードだったとしても、「体験談ではないですよ」と。

このようなことから女性アーティストは男性アーティストに比べ、作詞面において良いことばかりに思えるのだが、この選べること自体が「ドリカムアレルギー」を引き起こす原因になっていると考えられる。
厳密に言えば、女性が唄う『私』はアレルギーを引き起こす可能性が高く、一方、『僕』のほうは、アレルギーを引き起こしにくいのだ。

これは一体どういうことなのか?

★自己主張をしすぎないことがアレルギー防止へ繋がる

 

「本当に伝えたいことは2番の歌詞に込める」という作詞家は多い。
もうひとつの国民的アーティストMr.Childrenの桜井和寿氏が書きおろす歌詞もそうだと言われている。
1番でもなくサビでもなく、目立たない箇所へと、爪痕が目立たない箇所へと、あえてメッセージ性の強い言葉を置くやり方だ。
実際、「この歌の歌詞の2番が好き」と言う人が多いのは、そのせいだろう。

なぜ、このような手法をとるのか?いくつか予想できるが、その中のひとつとして、「保守的」が挙げられる。
そもそもメッセージ性の強い言葉(伝えたい言葉)というのは、いわゆる自己主張の激しい部分とも言え、思いの丈を注ぎ込んでいると言える。
そしてそれが決して「名言」とは限らないことも重ねて言えるだろう。
すなわち、良くある通俗的な言葉や薄っぺらな発言だったり、それは共感できないことや、反感を招きそうな戯言になっている可能性もあるということだ。

自分の概念・イデオロギーが全ての人に受け入れられるものなのか?と考えていただければ、「歌手の尺度・感動=聴き手の尺度・感動」という方式がとても難しいことがお分かりいただけるだろう。

この思想の違いによるごたごたを招かない方法として、1番ないしサビの部分に万人受けをする言葉を置き、目立たない箇所に自分の思想を載せるのが最善であり安全策という捉え方もできる。そのために、「本当に伝えたいことは2番の歌詞に込める」ということを考える作詞家が多いと憶測する。

そしてこの手法(安全策)に似た力を発揮するのが先述した、『僕』と『私』の使い分けだ。

吉田美和氏が仮に、
「僕の全てを君にあげる」「僕は何度でも立ち上がるよ」と唄うか、

「私の全てを君にあげる」「私は何度でも立ち上がるよ」と唄うか、

それによって、良い悪いは別にして、聴き手に大きな差が出るのである。
正確に言えば、先に説明した「歌詞と歌い手の距離感」、それが出る。
アーティストの生の声になるか、アーティストの歌声になるかという違い。

例として、浜崎あゆみ氏の今も多くの人を感動させる名曲、「Seasons」は『僕』で唄っており、これを『私』とすれば印象ががらりと変わるだろう。
また、男性作詞家が女性アーティストに送った名曲で補足説明するのならば、My Little Lover の「Hello, Again 〜昔からある場所〜」は『僕』であるし、Every Little Thingの「Time goes by」に関しては、『僕』も『私』も用いていない。
客観的な視点で唄い、唄わせている。
アーティストと歌詞に距離を置いている
これは故意か、それとも無意識か、おそらく前者だと予想する。

ではなぜこの「距離感」が大切であり、安全策となるのだろうか?

★女性リスナーは敏感

 

あえて女性アーティストが『僕』を唄う、あるいは唄わせることが安全策と言えるのは、先ずは女性リスナーを考えての配慮が挙げられる。
女性リスナーは実に敏感で、繊細で、私と違うもの、私が考える女性と違う者を拒否するきらいがある。
ある種の悟りであり、自分の経験から得た解釈(答え)と異なったものを一切受け付けない部分を持っている人が多数いるということ。
さらに補足すれば「思うよりもこう思われていたい」と考える人のほうが圧倒的に多いこともあり、『僕』を用いたほうが、安全かつ言葉を変えるのなら、万人受けするのである。

そしてもうひとつ、そもそも『美容男子』男性読者ならうなずいてもらえるだろうが、女性より男性の方が純情であり、センチメンタルである。
すなわち切ない歌詞を唄うのならば『僕』を用いたほうが、説得力が出るのである。
この言葉に納得できない、気分を害する女性読者がいるのなら、言葉を変え、男は女々しい生き物なのである。
「君の笑顔をいつまでも忘れないよ」と語りたかったら、『僕』を使用したほうが共感してもらえる確率が高く、そして先に述べたように距離感があり、直接的ではないため、賛否両論を招きそうな核の歌詞を2番に置くような、安全策にもなるのだ。

つまり上記の見解を踏まえると、
幅広く共感を持って貰うためには、歌詞を女性目線にしないほうが無難ということになるのである。
楽曲と自分との間に一定の距離を置き、それにより自分の思いをあえて八分目ぐらいまでの抑えて伝えること――結果、2番の歌詞の件のように自己主張をしすぎないようにと気配りされた保守的な曲、かつ説得力のある曲を送り出すことができるのである。
それにより拒否感、異論、反論のない状態、すなわち「アレルギーが起こりにくい状態」に導けるのだ。

★女性が女性を唄うのが危険なわけ

 

繰り返すが、女性アーティストにとって、『僕』はとても使いやすく、かつ距離を置く分だけ響きにくい。しかし自己主張のない、聴き手に誤った捉え方をされない手段、淘汰されない方法とも言える。

だが逆に距離を置かない、つまり女性が女性を唄うほうが、言葉は胸により深く突き刺さるということは言うまでもない。
特にそれがラブソング(片思いソングも含め)ならなおのことだ。
まさに『私』の最善の使い方にも思えるが、例えそれがどんなタイプの曲にしろ、女性が女性を唄うのは危険であり、諸刃と言える。

比較的最近のヒット曲から例を挙げれば、西野カナ氏の「トリセツ」は、まさに女性が女性を唄った曲であり、共感を得て、結婚式の定番ソングになるほどに人気が出た。
売り上げを見てみれば、歌詞の世界に同調した人、つまり歌詞が胸に深く突き刺さった人が多いのは一目瞭然である。
が、これは(『私』目線)はやはり危険であり、諸刃的な部分が浮き彫りになった証明と言える。
なぜならネット上において、拒否反応、すなわち、「西野カナアレルギー」を起こしている人が売り上げ同様に多数見受けられるからだ。

・表面だけ歌っていて軽い感じがする。
・かわい子ぶっている。
・お花畑ソングは疲れます。

等である。
つまり、『僕』とは違い、『私』は届きすぎるのである
抑えることなく、全てがリスナーに伝わってしまうのである。
「女性が唄う男性」よりも、遙かに胸に深く突き刺さる「女性が女性を唄う」歌詞ゆえに、それが自身に合わないと、リスナー(特に女性)は激しい嫌悪・違和感を抱くのである。
「美しければ美しいほど鼻につく」「元気な姿を見せられるほど落ち込む」という感情か?あるいは「幸せなら幸せなほど腹が立つ」という嫉妬に似た類のものか?もしくは理由なき反抗感情の爆発か?憤怒する人はとにかく多くいるのだ。
すなわち『私』目線の歌詞はやはり諸刃であり、即効性もあり持続性もある「薬」になるが、人によっては「毒」にもなるということである。

★ストレートな歌詞も諸刃になるわけ

 

別の例を挙げるとしたら、「愛している」という言葉についても同様のことが言える。
「愛している」の5文字は非常にストレートで、まさに深く胸に突き刺さる言葉。だが、それを「くさい」と感じる人も、もしくは「カラオケはもちろん、鼻歌でも恥ずかしくて唄えない」という人も多数いるのが現実である。
まさに人それぞれであり、激しく「良」ととるか、激しく「悪」ととるかのメッセージである。

このようなことから、現実世界においてのまどろっこしい恋の駆け引きのような遠回しメッセージ(八分目伝達)、すなわち波風の立たない言葉を遠くから放ったほうが、胸に深く突き刺さらない分、拒否反応(アレルギー)が出にくいと言える。
転じて、『私』目線を用いた伝わりやすい環境で、さらにストレートな「愛している」を使うということは、大きな効果と同時に大きなリスクも生じる覚悟が必要と言うことが言えるだろう。


そして、ここで「ドリカムアレルギー」の話に戻るのなら、ドリカムはほぼ、『私』の歌詞である。もしくは多数の曲で『あなた』と男性に問いかけている。
すなわち、歌詞と自分との距離感をなくして伝わりやすい環境を作り、真っ向勝負を挑んでいるのである。
さらに言えば、「LOVE LOVE LOVE」「未来予想図Ⅱ」において、人それぞれ好き嫌いがはっきりと分かれる、「愛している」というストレートな言葉も放っているのだ。
この歌詞は私自身、と。
私の話をちゃんと聞いて、と。

ましてや『僕』と『私』を使い分けられるのにも関わらず、あえて『私』を選ぶのは、激しく主張、同意、協調、和解、を求めていると、誤った勘ぐられかたをしてしまう恐れがある中での選択である。

これぞ、【自分の声で自分の好きな言葉を歌うアーティスト】という芸術家定型の考え方だが、拒否反応を示す可能性の高い環境へと自ら進んでいることも、ここまでの説明でお分かりいただけると思う。

 

3.お腹いっぱいになるラブソング・人生応援歌

男子から嫌われようがアンチも多数!でもそれを上回る共感者続出!

 

ストレートなラブソング、あるいは人生応援歌的なものと言えば、

明日への扉 (I WiSH)
トリセツ(西野カナ)
愛は勝つ(KAN)
それが大事(大事MANブラザーズバンド)
負けないで(ZARD)
Everything(MISIA)
何も言えなくて…夏(J-WALK)

などが挙げられる。
ここで出発点に戻り、ドリカムアレルギーに見られる押しつけられているという世間の捉え方について考えると、ストレートなラブソング、あるいは人生応援歌的な内容の楽曲は、各アーティストに1曲あれば十分という風潮があることが分かる。
元気にさせてくれる曲は1曲、泣きたい時に思いっきり泣ける曲は、すなわちメッセージ性の強い曲は各アーティストに1曲ないし2曲あれば、と。

だが、アーティストにとってこの爆発的ヒットを受け、「こういう曲をみんなが求めているのか」と思い、その曲を越えようと奮起する。
同じ路線でだ。
だがその結果、ヒットがネックとなり、ひいてはそれがアレルギーを引き起こす原因となっていくのである。
〝お腹いっぱい状態での、さらにボリュームのある曲〟だ。
本来、音を楽しむはずの音楽が、娯楽や癒しにならず、苦痛となるのだ。

厳密に言えば、その曲が名曲であればあるほど、それを越えるのはアーティストにとって困難なものとなる。そしてその頑張りを繰り返せば繰り返すほど、アレルギー反応を引き起こす事態を招くということである。
感動・共感の押し付け感が出てしまうのだ。
他の見方をするのならば、プリンセスプリンセスの名曲、「M」は、「Diamonds」「世界でいちばん熱い夏」などの、元気な楽曲があってこそ、「M」のバラードが響くと言える。
似たような曲をいくつも作れば、リスナーの大半は圧迫感を抱いてしまうのだ。
さらに言えば、星野源氏の「恋」続く楽曲は、このようなことからとても難しいとも言える。

「ほら、元気になってよ」
「さあ、頑張ろうよ」

という繰り返しの優しい言葉が、返って辛さを招くこともある。
既に頑張っている状態での声援、強制自己啓発、目標や気概を求めていない上での強い信念や情熱である。
それと同じ痛苦が楽曲にも起こり、何度も何度も励ましや気配りの言葉を送られた結果、「頑張れアレルギー」を引き起こしてしまうのである。
ひいてはこれが、「ドリカムアレルギー」と理由のひとつと言えるだろう。

アーティストがそれに気付かず、さらに懸命になればなるほど、自己肯定に励めば励むほど、挑戦的に伝えようとすればするほど、リスナーのことを思えば思うほど、アレルギーは力を増していくのだ――まさに悪循環である。

 

 

4.歌詞と歌い手を切り離せないリスナーの現実

なんとも理不尽な現象が起こっているのです

 

多数の曲を世に出しているアーティストは、自身の全てを歌詞に注ぎ込んでいるわけでは当然ないだろう。
そんなことをしていれば、同じような歌詞ばかりになるし、経験を元にしていれば、やがて尽きるのは明白。
この説を裏付ける話として、あの恋愛ソングの女王、ユーミンこと松任谷由実は、「変装して喫茶店に行き、若い子たちの恋愛話を聞き、そこでイメージを膨らませ、歌詞にしている」と発言している。
JASRAC(日本音楽著作権協会)の関係上、歌詞は引用できないが、ユーミンの「Destiny」という名曲は『まさに喫茶店での会話を聞いたんだな』と思わせるものがある。
想像の中の歌詞なんだなと。
この「Destiny」のように、完全に切り離して考えられる曲(想像として捉えられる曲)ならば、アレルギーは起こりにくいと言える。
これが例えアレルギーが起きやすいと言える、メッセージ性の強い歌詞やバラードにおいてもだ。
だが、そうそうそんな曲は作れないのが現実である。
歌詞と歌い手を完全に切り離す曲作りはとても困難である。
もちろん、切り離すことが困難だからこそ、その歌詞からそのアーティストの内面を読み取り、コアなファンになる人もいるだろう。すなわちプラス効果だ。
が、この切り離して考えられない情況は、プラス効果と同じくらいに、あるいはそれ以上にマイナス効果を招きもするのである。

ではそのマイナス効果とは?

 

▼アーティストの私生活・人間性を歌から読み取る

 

「ドリカムアレルギー」、あるいはネットで多数見かける「ミスチルアレルギー」。
その要因として外せないのが、歌詞と歌い手を完全に切り離せない部分にある。
これは先項目で述べた、「2番」、女性アーティストに関して言えば『僕』を用いても不可能で、距離を置くことはできても、完全には切り離せないのだ。
どうしても、
【アーティスト=この歌詞の中の人】
と並べてしまう。
「殺人事件を書く作家は殺人者ではない」とそれは分かっても、アーティストに関しては、綺麗に切り離せないのである。

するとどうなるのか?

▼アーティストの私生活が楽曲につきまとう

 

昨今、インターネットの普及により、簡単に情報が手に入る時代。それに伴い、本来神秘的要素を持っている、あるいは手の届かない存在であるアーティストのプライベートが簡単に検索して閲覧、さらには掘り返すことも可能である。
結果、明確にアーティストを浮き彫りに出来る。
つまりこれは、アーティスト=この歌詞の中の人ということの浮き彫りさ、明確さと比例するのだ。

詳しいことは記載しないが(わざわざ蒸し返すこともないと判断し)、
「道徳の恋愛に外れたことをした人が恋愛の歌を唄うな」
「説得力がまるでない。いい子ぶるな」
というドリカムに対しての意見がオンライン上で多数見受けられるのは、「アーティスト=この歌詞の中の人」と考えている証拠。楽曲を私生活と照らしている証拠と言えるだろう。
まさに情報過多の社会ならではの嫌悪の萌芽とも言え、そしてアレルギーをもたらしている原因のひとつと断言できる証明とも言える。
ましてや、宇多田ヒカル氏や椎名林檎氏のような、いわゆる「優等生ではない」「男に媚びない」「みんなはみんな。私は私」「欲望をさらり」というイメージのある歌い手ならば、これほどまでに大きな影響、反感は買わないはずだが、「愛」「夢」「希望」などを数多く唄う歌手にとってはまさに致命的で、怒りを買う要素が高くなってしまうのである。

それは吉田美和氏に限らず、「ミスチルアレルギー」の源、桜井和寿氏にも言えることで、本来ならば、あくまでも楽曲とその歌い手・作り手は違うものなのに、本人の人生とは関係ないはずなのに、そうは決して考えられない人が多いのが現実なのだ。

おそらく「ドリカムアレルギー」「ミスチルアレルギー」を公表する人の大半は、「退廃的恋愛」、それに語弊があるのならば、自分を見失うぐらいの恋をしたら書ける、浮かぶ詩もあるということを理解しているはずだろう。
立ち直るのが困難なぐらいの失恋をしてこそ、共感できる心情があると。
だがしかし、そう分かっていてもどうにもならないのがアレルギーであることも、ただ避けるしかないのも、同時に自覚していることだろう。
その結果、視聴した上で、
「歌詞に説得力がない」
「このメロディラインは好きになれない」
とはならず、曲を聴く前からの嫌悪をしめし、耳を塞ぎ、NGにしてしまうのだ。
アーティストは全て、「自分のことを書いている」わけではないことを頭で分かっていても本能が受け付けない状態。私生活・実体験をそのまま歌詞に反映しているわけではないと脳で理解していても心が受け付けない状態になっているのである。

もちろんそう考えるリスナーをどうこう言いたいわけではなく、あくまでもアレルギーの原因と考えた上での見解である。
『出来れば主観的な価値判断を抑えて寛大な心で音楽を聴いてください』とは言えないし、アーティスト自身ももちろん言わないだろう。
だからといって、「私生活にアーティストとしての本質がある」とも言い切れないはずだ。

全部理解している、だけどやっぱり受け付けられない――それが多くのアレルギー反応を示す人の率直な意見だろう。
考え方が違う者同士でも一緒に楽しめるのが音楽、という根本的なことを分かっていても……ということである。

 

5.アーティストの年齢との闘い

アレルギー反応は年齢によるケースもある

 

アスリートの自身の年齢との闘いは誰もが知り得ることだが、アーティストにも年齢との闘いがあると言えるだろう。
アイドルなら安易に想像つくと思うが、実はアーティストにも存在している。

それは、いつまで若い世代に指示されるテーマ、

を歌えるか?歌詞にしていいか?ということである。

これらは、「」や「希望」や「」にも置き換えることができ、これらは使用期限の見えないタイムリミットがある。

人生の教訓として考えるならば、
「いつまでも夢を持とう」
「いつだって恋をして輝こう」
といった発言は堂々とできる。
補足すれば、四十代、五十代の人が言えば説得力が出る。
女性相手ならば、上記プラス、
「いくつになっても女性は乙女」という励ましというか、そうでいてほしい、そうあるべきだ、ということが躊躇うことなく言え、そして信憑性も増す。
おそらく、その言葉に元気や道標を貰う人もいるだろう。

だが、これが「歌」の世界だとそうは受け取れない場合があるのだ。

いつまで、「恋」を唄っているんだよ。
「恋」とか「夢」って一体いくつなのさ。
ロリコン?

と、つまりここでもアレルギー的な要素が生まれる可能性が高いのである。
さらに、「年齢に合わない衣装」「年齢に合わない髪型」「年齢に合わない喋り方」といった、歌には何ら関係ない部分に対しても眉をひそめる人もいるはずだろう。

ましてや、「さとり世代」と呼ばれる人は、こういった冷静な分析感情を強く持っているため、厳然たる嫌悪へと繋がって行くと言えるのではないだろうか?

 

★ここで急浮上!?演歌最強説

 

「恋」「夢」「希望」、そして「愛」などは、1番売れるであろう歌詞テーマであり、すなわち万人受けされる。
しかし、上記で述べたようにアーティスト自身の歳と共に、それを唄うのが、聴き手、もしくは歌い手自身も苦しくなるのが現実だろう。

そんな中、年齢との闘いがないアーティストもいる。

それが演歌歌手だ。

いくつになろうと、「恋」を唄えば、「大人の恋」となり受け入れられ、「夢」や「希望」を唄えば教訓を呼び、「愛」を唄えば、年相応の深み、渋みが出る。
年齢というものを上手く、末永く使えるアーティスト分野と断言できるだろう。

「氷雨」という名曲演歌があるが、そういった観点から聴いてみると、その歌詞の世界にさらに鮮やかな色が付くと言える。
年齢や歌詞との使用期限に関しては、もしかしたら〝演歌が最強なのでは?〟と思いもするのである。

 

6.信者の数だけアンチは存在する

ドリカムは名乗らずにリリースを試みるとの発表も!

 

ベストセラー作家、村上春樹氏にも信者の数だけアンチがいると言えるだろう。
「あの世界観が嫌い」と。

世界観、言い方を別なものにするのならば個性だ。

その個性は、出版業界に限らず、音楽シーンで売れるためにも絶対に必要なものなのだが、村上春樹氏しかり、その個性が強ければ強いほど、明確なほど、アンチを増やす、つまりアレルギーを引き起こしやすい情況になるとも言える。
歌詞はもちろん、キャラクターも含めてである。
例を挙げるのなら、ドリカム、ミスチル、西野カナ以外でも、
「FUNKY MONKEY BABYS」
「いきものがかり」
「ゆず」
「コブクロ」
「SEKAI NO OWARI 」
「aiko」
といったアーティストは、オンライン上でアンチを見つけるのは簡単だ。
そしてどのアーティストにも共通して言えるのが、売れるための要素である「個性」を持っていることである。
現に誰もが安易に容姿が浮かび、そしてその曲のイメージもつくはずだろう。

つまり、
そのイメージ(世界観)をどう思うか?
深く、幅広く聴く前に、ここで好き・嫌いがはっきりと分かれてしまうということだ。

アレルギーになるかならないかの分かれ道である。

繰り返すがもちろん売れるためには、個性(世界観・歌詞や見た目のインパクト)は必要である。だが売れてしまうと、それが今度は邪魔になり、中傷、辛口発言、そしてアレルギーの原因となるのである。

憶測だが、様々なアーティストはおそらくそれに苦しみ、苦肉の策としてイメージとは違う曲を世に送り出したりするのだろう。
だがしかし、イメージの一新にはならず、結局いつもと違った「隠れた名曲」扱い止まりになるのが現実と言える。
たった1曲の意外な一面、曲である。
この例から考えればようするに、イメージからはそうそう逃れられず、最後はその個性(世界観)が好きでファンになった人を引き留めたいという考えに辿り着き、アーティストは今まで通りに行くしかないという選択しかできないのだろう。

蛇足だが、解散、活動休止しているグループは、方向性の違い、金銭問題、男女問題、ネタ切れ等、理由はあるだろうが、もしかしたらこの「イメージ打破」に苦しんでの決断も多少はあるのではないだろうか。

 

■イメージ通りに進んでも、アレルギーが起こりうることも!?

 

では、アレルギーを起こしている人は無視して、アレルギーを起こさない人(相性の良いファン)のためにイメージ通り進めばいい、という簡単な話になるのだが、そのアレルギーは突然起こることもある。

この記事の著者である知人のK氏は、「BUMP OF CHICKEN」が好きで、編集を生業にしていることもあり、作詞作曲を手がけるヴォーカルの藤原基央氏の詩の世界観に尊敬の眼差しを送っていたのだが、その例のひとつになった。

「『スノースマイル』は名曲だ。あの歌詞の凄いところは、女性を『右』において描いているところだ。本来、運転席の発想から、『男は右・女は左』と書きたくなるし、当たり前のようにそうやって歩いている人ばかりなのに、あれはあえて、女性を『右』にし、このふたりの性格や生き方や関係を一瞬で表現しているんだ」

というまさに編集者目線での熱い話は、飲みの席で何度も聞かされたほどである。

では、そんなにまで熱心に語るバンプファンのK氏になぜアレルギーが起こったのか?

「BUMP OF CHICKEN」はご存知の方も多いと思うが、テレビメディアには出なかった。
そういったプロモーションということではなく、「テレビでは本当の自分たちを伝えることが出来ない。だからライブに来てくれ」という理由からである。
まさにこれぞバンプといったところだろう。

だが、2014年7月、『ミュージックステーション』(テレビ朝日)スペシャルにて、楽曲を初演奏した。
イメージの崩壊――ここでアレルギーを起こす人もいるだろう。
だがK氏に限っては違って、大・大ファンだったため、楽しみにしていた。
「いよいよバンプがテレビで唄うよ」「タモさんと何を話すのだろう?」と興奮していたということである。

ではどこでK氏のアレルギーは起こったのか?
それは、バンプがイメージ通りに進んだゆえにアレルギーを発したのだ。
「歌に集中したいから、トークはなし」
ということで、楽曲のみの演奏という、まさにこれぞ「BUMP OF CHICKEN」といったクールな行動によってである。
K氏は、「いやいやプロでしょ。どんな状態においても最高の演奏、パフォーマンスを見せるのがプロでしょ」と大好きだからこその難色を示したのだ。「何でタモさんと話してくれないんだよ」と。

ようするに、イメージ通りに進んでも、離れていくファンはいるということである。
方向性と簡単に言うが、方向性を決めても、どう歩くか?どう進むか?それも重要と言えるだろう。

■無個性が個性になっているものは生き残るというひとつの答え

 

仮に方向性が見えやすいロックンローラーが、「こうしないとロックじゃないだろ」とロックを主張。自由を提示するような発言をしたとしても、そこで既にその自由の象徴であるロック自体に縛られていたりする。
「ロックという枠の中での優等生生活・ロックを気にしすぎる活動」だ。
つまり、方向性の分かりやすい、かつ何でもありのようなロックの世界でも、やはりアーティストであり、知らない間に自由にできなくなっていくパターンや、大衆に媚びているプロセスはあり、それによってイメージは嫌なかたちで固まり、アレルギーの原因を作ってしまう可能性はあると言える。

と、まさに全てのアーティストにとって八方塞がりの状態なのだが、アレルギー反応が少ないアーティストも実はいる。
それは今年30周年を迎える「スピッツ」である。
どちらかと言えばアレルギー、嫌悪、拒否反応を持たない方が多いのではないだろうか。

好きな方はもちろん、好きでも嫌いでもない、という意見である。

これには大きな理由がふたつあると思われる。

・無個性である
先述した通り、歌詞の伝え方・イメージが強いとアレルギーが起こり、○という曲が駄目だから、全て受け付けないから、このアーティストの曲はみんな駄目――つまり安易な発想で相性が悪いという考えに染まりがちになる。
しかしスピッツはあらゆる面で、良い意味で薄い印象を受け、
「スピッツと言えば?」
という質問の答えにバラつきが出ると考える。
つまり主張部分、能動的部分がなく、無個性、イメージが固まっていないと言える。
末永く続けていくためには、愛されるためには、「無個性」であり、「イメージの付着」は不必要、という見解から分析すれば、スピッツはこれに該当し、だからアレルギーを感じている人が少ないのではないか?と考えられる。


・歌詞に大きな意味を添えていない(どこか幻想的である)
詩人的な歌詞ゆえに、どこか幻想的で、何を伝えたいのか分かるようで分からないものは、敵を作らない要素である「胸に届きにくい八分目伝達」を自然と行い、そして「伸びしろのある世界」を築いているということが言える。

伸びしろのある世界とは、
『宇宙の風』『ゴミできらめく世界』『浮かんで消えるガイコツ』『悪魔のフリして』『ぼやけた六等星』
など、解釈の難しい、捉え方が散らばる言葉を多用した歌詞内容のことである。
つまりスピッツは、人それぞれいくらでも解釈可能というストーリーを作っているのである。
が、これだけでは「幻想的・寓話的アーティスト」というアレルギー原因のひとつ、“イメージ”が付いてしまうのだが、その中で、リアルな部分、自分と置き換えやすい(想像しやすい)詩を入れているため、拒否反応が起きにくいのだ。
(やはり、JASRAC(日本音楽著作権協会)の件があるので、特定できる長い歌詞は記載しないが、「チェリー」などを聴いて、ご自身でご確認を)

さらに補足すれば、スピッツの中の名曲、「スカーレット」においては、
――自分をありのまま君にぶつけたとしても、微笑んでくれるのかなあ
といったことを語っている歌詞がある。
(そのまま引用しないが、意味は同じ)

後半部分に出てくるこの一説は魔法と言える。
なぜならこの言葉は男女の隔たりをなくし、つまり、男女とも感情投入が自由にできるからである。
こういった歌詞は非常に重要で、男女どちらとも思い当たるふしは男女どちらのファンも増やすことに繋がり、そして苦しい恋を経験した人なら大きくうなずいてしまう言葉は、惹きつける年齢の幅を広くできるのである。
老若男女、共感を呼ぶということだ。
スピッツは、幻想的な世界にこういう単純ながら奥の深い歌詞を入れることにより、イメージを固めず、幅広く受け入れられる世界を構築し、30周年を迎えたと言えるのではないか。

※ちなみにスピッツがあの世界観になったのは、ブルーハーツの影響らしく、「同じ路線では勝てない」と思ったかららしい。

 

7.アレルギーを和らげる方法とは?

〝TSUNAMI〟はアレルギーの原因を一掃した!

 

誰もが知っているであろうもうひとつの国民的アーティストであるサザンオールスターズ。
そのサザンはデビュー間もない頃、「コミックバンド的なイメージ」あるいは、「夏と言えばサザン(転じて夏だけのサザン)」と言われた時期も実はあった。

それを天才と言っていい桑田佳祐氏があの手この手とイメージを壊し、新しいイメージを被せていき、今の地位を築いたのである。
胸にしみるバラードも唄えるアーティスト、そして夏じゃなくても思い出すアーティスト――すなわちイメージからの脱却に成功した希な例だ。

だが、その桑田佳祐氏率いるサザンオールスターズにもやはりアレルギーがあるようで、ネットで批判の声も見られるのも事実だ。
あのサザンにも、である。
だが、その批判意見を読み進めて行くとサザンオールスターズのアレルギーは、他アーティストと決定的に違うことに気付く。
それは、「サザンは嫌いだけど、○の曲だけは好き」という意見が多数あるということだ。

これはある意味、打つ手なしと思われたアレルギーの特効薬を持っていると言えるのではないか。
つまりこの特効薬的な1曲があれば、アレルギーがいつか改善される可能性があるということである。
ここの差が、重度のアレルギーを引き起こすアーティストか、それとも軽度なのかの違いと言えるのではないかと考える。

最大のアレルギー対策は、アレルギーを決して恐れず、原点に返り、「とにかくいい曲を作るしかない」とそう開き直ることなのかもしれない。

 

 

「ドリカムアレルギー」を深く分析して導かれたものとは?

  • 1. 女性アーティストが唄う『僕』は届きすぎてしまう
  • 2. それにより、嫌なかたちで主張しすぎて、反論を招く確率が高い
  • 3. アーティストはイメージで売れ、そのイメージに苦しんでいる可能性が高い
  • 4.「恋」「夢」「希望」を唄うのに、見えない年齢制限がある
  • 5. アレルギーに対する薬は、さらに良質な「歌」を作ることである

ライター後記

実はこの記事はもう少し長く、「私」「あたし」の違いや、スキー場で流れる曲を意識すれば末永く愛されるとか、言葉をあるかたちでかえると臭くなくなるとか、そういう項目もあったのですが、省きました。この記事の評判が良かったら、いつか追記します。

 

nokotta

ここで紹介したアーティストの楽曲で、元気を貰ったこと、救われたことが何度もあります。

読書が趣味。休日は喫茶店をはしごしながら本を読みまくります。

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