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ふつうがわからない

 

 

ふつうってなんだろう、とよく思うのだけど、 かくいうわたしは、わたしのことを「ふつう」と思ってしまう節があり 親しい人にその話をすると「マジ?」というような反応をされることがよくあります。

でも、 どうやったら自分のことを「ふつじゃない」と思えるのか、とぼくは思ってしまうのですよ。 だって、このぼくの人生しかしらないのだもの、 地球上に何十億という人がいたとしても、 こちら側から眺めている誰かと、こちら側である私とを 同じものさしではかることなどそもそもできないわけだから、 常に、答えは「判定不能」となるでしょう? そうしたときに「自分をふつうではない」と判断することがぼくにはよくわからなくて。

それから、 ふつうではないということは「変わっている」ということを意味すると仮定すると、 自分を変わっている、などと言うことをどこか気恥ずかしく思ってしまう。 その思考の根底には「変わっている」を「特別」とイコールにして 自分を変わっていると自認することは 「自分は特別だぞ」と思っているようで恥ずかしいのだと思う。

ただ「自分はふつうだ」と思い込むと、 自分はふつうなはずなのに、どうやったってでてくる”ふつうではない部分の自分”を、 見ようとしない、認められない、許せない、というような 葛藤というか自己矛盾ようなものが生まれるように思う。

たとえば。

ぼくは、ふつうの人なのに、 どうしてふつうの人がしているように毎日会社へ行って、毎日働かないのだろうか。と、なり、 そんなふつうじゃない生活は、特別な環境や才能をもった人がすることで、 ふつうの自分がそれをしていてはダメだ! と、なったりするのです。

なものでこのごろは、自分のために、 「ふつう」という言葉をなるべく使わずに暮らすよう心がけています。 それは、世間話の場において軽々しく「ふつうはさ」なんて使わなようにするだけでなく、 自分の頭なのか心なのかでグルグルめぐる内なる声に対しても、 なるべくその言葉、概念を使わずに生きるということなのですが、 意味わかりますかね??

この「”ふつう”を便利使いしない」運動は、 ざっくりいうと、基準をもたないということになるのかもしれないです。 それはおおきく捉えてみると、偏見をなくす運動ということかもしれない。

「あなたはふつうだね」なんて意見は、 自分とあなたを比べて初めてなりたつ意見なわけだから 相手側から見れば「あなたこそふつうだね」という話。

「ふつう」という実体のないものを 自分の勝手なる思い込みで相手の言動などにあてはめ発しているとしたら それっていわゆる「偏見」なのではなかろうか、と思うのです。

というお前の意見こそがおおいに偏っているけど??  とやっていると、永遠に話が終わらないので、 今日はこれにて失礼させていただきますね! ご清聴どうもありがとうございました。

 

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